煙たい男たち|Case8 挾土秀平

By RollingStone Japan 編集部
強い意志を感じる鋭い眼差し。いっぽうで優しい表情からは、器の大きさも感じる。
世界的な評価を受ける左官職人は、何もかもが型破りだった。


男の名前は挾土秀平。職業は左官職人、壁を塗ることを生業とする。日本の伝統技能の世界に身をおく者となると、昔ながらの気難しい職人と思うかもしれない。その実、逆で、そうした伝統の枠にとらわれず、むしろ古い因習に抗い、自由な発想とスタンスで壁を塗り続けてきた。その作品は国内だけでなく、世界が認めている。挾土が手掛けた壁は、例えば、ザ・ペニンシュラ東京、東京中央郵便局、アメリカのアリゾナ州バタフライウォール……など、地元の飛騨高山だけでなく、東京、そして世界中に存在している。

挾土は岐阜県高山市、いわゆる飛騨高山に生まれ育った。父親も左官職人だったため、何の疑いもなく、同じ道を歩み出したという。21歳の時には技能五輪全国大会左官部門で優勝を果たし、職人としての才能は早い段階から高い評価を得ていた。だが挾土自身はその優勝を、「あの頃の俺は単なるロボットだよ。要は会社の代表として大会に臨んだわけで、そこには自分がない。意味ないね」と一笑に付す。その言葉が示す通り、当時は左官会社に勤めていたが、とにかく、縦社会が嫌い。上から命令されるのが嫌い。ルールに従うことが大嫌い。それで会社を辞め、独立した。

伝統技能をただ守る職人ではなく、時代の中で呼吸する仕事がしたいと思った。それこそが、新しくてかっこいい左官職人だと思った。「時代の中でかわいがられてこそ職人だから。どんなに金がかかってもいいから、旦那さんから『好きなことをやれ』って言われるのが職人」と悟り、好きなように壁を塗った。その壁は、時には恐ろしいものであり、かっこいいものであり、かわいそうなものだった。つまり、言ってみれば、「感情を持った壁」を、挾土は地元で作っていったのである。

そんな型破りの壁に、地元の反応は冷ややかだった。塗るたびに景観問題や文化財復元論争が勃発した。例えば「東家土蔵(ひがしけどぞう)」。今から250年前に建てられ、飛騨の農民一揆の舞台になったことから文化財に指定された土蔵だ。その復元の依頼がきた。当時、壁はすでにはがれ落ちていた。復元といえば作られた当時の状態、つまり真新しい状態に戻すのが常識である。だが挾土は壊れたままの状態で復元した。当然、波紋を呼んだ。挾土は涼しい顔をして言う。「その壁を子供が見て、母ちゃんに『何であの壁は壊れてるの?』ってききたくなる壁を作りたかった。子供が『何で?』と問えば、母ちゃんは『実はね……』と、物語や歴史を語る。本当は、風景が全部そうだったらいいのにと思うよ。そうしたら学校の歴史の授業なんていらないじゃない」

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