音楽史上最高のライヴ・アルバム ベスト50

5位 B.B.キング『ライヴ・アット・ザ・リーガル』(1965年)


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1964年11月、B.B.キングがシカゴ南部に位置する歴史あるリーガル劇場でパフォーマンスを行った時、彼には30曲ものR&Bのヒット曲があったがポップ・チャートに名を刻むことはほとんどなかった。その日の公演を録音したキングにとって初となるライヴ・アルバムは多くの白人リスナーに受け入れられるきっかけとなり、熱狂的なブルース愛好家たちもこの作品に今まで以上に畏敬の念を示した。エリック・クラプトンがショーの準備の際に『ライヴ・アット・ザ・リーガル』を流すという噂もある。このジャンルの新参者は、素晴らしいホルン・セクションに支えられ、愛用する黒いギブソン製ギター「ルシール」で引き出した無駄のないソロで、ジャズというものをこれ以上ないほど簡潔に表現するために気品さと気概をもって各曲を演奏する、洗練されているがとにかくプロフェッショナルな人物と出会った。当時いつもそうしていたように、セットリストは『エヴリデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルース』から始まり、毎年300回以上のショーを行っていたツアー人間は悲嘆の感情を示すことも自慢する素振りを見せることもなかった。by Keith Harris

4位 ザ・フー『ライヴ・アット・リーズ』(1970年)


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ザ・フーは1969年から1970年の大半を、彼らのロック・オペラ作品『トミー』をコンサートの大目玉として演奏するツアー巡業に費やしていた。彼らは恐れ多く力強いライヴ・バンドとなり、彼らの残忍性と同じくらい流動的だった。4人の天才がステージの各隅に立ち黄金の悪魔をともに召喚した。1970年のバレンタインデーに大学で開催されたギグで録音された『ライヴ・アット・リーズ』のオリジナル盤は3曲のカヴァー曲とザ・フーのスタンダードをアレンジした3曲を収録し、ジャケットはまさに海賊盤LPそのものと言えるデザインだった(パチパチ聴こえるノイズはケーブルの不備が原因であると説明されている)。シンガーのロジャー・ダルトリーが後に語ったように、このアルバムは「2時間45分にわたるショーの終盤であり、終盤に行ったただの即興演奏だ」。アルバム『トミー』収録曲自体は除外されているが、曲のなかのリフのいくつかは激しいプロトパンク曲『マイ・ジェネレイション』から発展した15分間の即興演奏のなかで披露されている。後にリリースされた各バージョンには少しずつ曲が追加されていき、最終的にはその夜のライヴで演奏されたほかの27曲が追加された。by Douglas Wolk

3位 ジョニー・キャッシュ『アット・フォルサム・プリズン』(1968年)


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1968年のキャッシュのライヴ・アルバムはアルコールと薬物依存のスパイラルから抜け出すことに成功したアメリカのレジェンドにとって適切なタイミングでリリースされた。言うまでもなく、4年間でトップ40入りが一度もないという人気が一時的に停滞して苦しんでいた時期であった。キャッシュはフォルサムを訪れた時点で刑務所でのパフォーマンス歴が10年近くあったが、1955年の象徴的なヒット曲『フォルサム・プリズン・ブルース』に影響を与えたこの場所でキャッシュが初めて実施したライヴ録音は、まさに彼のキャリアが必要としていたものになった。1973年に実施したローリングストーン誌のインタビューで「そこは俺がグレン・シャーリーに出会った場所である」と、このフォルサムの囚人が書いた曲『グレイストーン・チャペル』についてキャッシュは語った。「あの場所は明らかに俺にとっての物事が再スタートを切った地点だ」。by Brittany Spanos

2位 オールマン・ブラザーズ・バンド『フィルモア・イースト・ライヴ』(1971年)

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スリーヴにパブストビールの缶を携えたコンサートスタッフの写真が載っているオールマン・ブラザーズの『フィルモア・イースト・ライヴ』は、もしB面、C面、D面の白熱する即興演奏がなければ、ブルース・ロック中心に選曲された2枚組のLP盤になっていただろう。1971年3月、イースト・ヴィレッジにあるビル・グレアム所有の会場で録音され、その4ヶ月後にリリースされたこのアルバムは兄デュアンの指揮の下で作られたオールマン・ブラザーズ最後のアルバムである。デュアンによるコルトレーンの影響を受けた賛否の分かれるギター演奏は23分にわたる曲『ウィッピング・ポスト』に斬新な優雅さを与え、ただの長髪のブルースバカではないことを見せつける。「B.B.キングが『ライヴ・アット・ザ・リーガル』でしたことは、1曲のとにかく長い曲で壮大なメドレーみたいなものだと思う」と、グレッグ・オールマンはバンドの伝記を執筆した作家アラン・ポールに語った。「彼は一度も止まらずにショーをやり通した」。ギャラを支払わないバッファローのクラブ・オーナーを刺殺したことで投獄されてその場にいなかったツアー・マネージャー、ツイッグス・ロンドンJr.がB面でイメージされている。by Jesse Jarnow

1位 ジェームス・ブラウン『ライヴ・アット・ジ・アポロ』(1963年)
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キング・レコードの創立者シド・ネイサンはジェームス・ブラウンのライヴ・アルバムを制作するというアイデアには飛びつかなかった。会社がまだ利益を生み出すための冒険ができるほど地盤が固まっておらず、当時の彼は特にシングル以外に興味を示さなかったからだ。「誰も俺たちを信じてくれなかった。会社の重役は誰ひとり俺たちを信じてくれなかった」と、盛り上げ役のボビー・バードは振り返った。「でも俺たちはクレイジーだっただろ。俺たちはその返事を自分たちのショーができなくなる意味だと理解した」。そのため、ブラウンは自己資金でショーを開催したがアルバムを自費リリースする準備まではできていなかった。ハーレムにある歴史的に有名なアポロ・シアターはたいてい水曜日にアマチュアナイトを開催していたが、「ショービジネス界一の働き者」はその時全盛期であった。持ち時間が27分しかないのに彼はふざけていた。まずフェイマス・フレイムスの機関車のようなリズムから『トライ・ミー』のような格式あるバラード曲をクールに歌い上げるなどあらゆる一面を見せた。長く自制すればするほど彼の声はより一層震え、最後には懇願し訴えかけるような叫びで会場を支配する。by Christina Lee

Translation by Shizuka De Luca

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