アース・ウィンド&ファイアーの創設者でシンガー、モーリス・ホワイト氏が74歳で逝去

モーリス・ホワイトは1941年12月19日にメンフィスで生まれた。父親は医者で、祖父はニューオーリンズの酒場で演奏するピアニストだった。その後、彼は人生の早い段階で家族とともにシカゴに引越し、ゴスペルを歌うようになる。60年代半ばには現在のシカゴ音楽院に通い、レコードレーベルのチェス・レコードでセッションドラマーとして演奏をするようになった。ここで彼はマディ・ウォーターズやインプレッションズ、ビリー・スチュワートたちと歴史を塗り替えてきた。60年代後半になるとラムゼイ・ルイス・トリオに参加し、そこでカリンバを学ぶ。これはのちにアース・ウィンド&ファイアーのサウンドにおいて大きな役割を果たすことになる。

ホワイトはボーカルとベース、パーカッションを担当するヴァーダインとともにロサンゼルスでアース・ウィンド&ファイアーの原型を結成し、自分の占星術のチャートのエレメントからグループを命名した。その後長年、ホワイトは歌い、カリンバとドラムを演奏し、バンドをプロデュースしてきた。

その後、キャピトルレコードと契約、2枚のアルバムを発表する。しかし、若いミュージシャンをメンバーに加えるまで、大きな注目を集めることはなかった。状況が変化したのは1973年、『ヘッド・トゥ・ザ・スカイ』をリリースしたときである。このアルバムはゴールドディスクになり、ロングヒットとなった。ハーヴェイ・カイテルも出演し、バンドを主役にした映画『暗黒への挑戦』のサウンドトラックアルバムに収録されている『シャイニング・スター』によって、グラミー賞を獲得し、音楽シーンの中央へと躍り出ることができたのだ。

そして、バンドは精巧で魅力的なステージを披露するようになる。1978年、彼らは映画『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』への出演をオファーされ、この作品でビートルズのカバー曲を発表し、大ヒット曲となった。

「僕たちには力強いリーダーがいた」。2013年、ヴァーダインは新聞『ザ・テレグラフ』紙のインタビューでこう語っている。「僕たちはモーリスを深く尊敬していた。アース・ウィンド&ファイアーとして旅を始めたとき、僕たちは21歳で、モーリスが31歳だった。彼は僕たちよりもずっとたくさんのことを経験していたんだ。モーリスは、当時のミュージシャンたちのライフスタイルがひどかったから、違う倫理観を唱え信頼を確立することに感心があった。だから僕たちは健康的な食生活や瞑想、ビタミンを取ること、哲学の本を読むこと、人生という「生徒」になることを好んだんだ」

70年代を通してホワイトはプロデューサーとしてのキャリアもスタートさせ、エモーションズ、ラムゼイ・ルイス、デニース・ウィリアムズらと仕事をした。1985年にはソロアルバム『モーリス・ホワイト』をリリースし、カバー曲『スタンド・バイ・ミー』をヒットさせた。

「アフリカを中心としたジャズを発表し、70年代に僕たちが向き合わなくてはならなかったことに直面しながら精神的に前向きでいることがどれほど大変なことかわかるかい?」とクエストラブはインスタグラムに投稿した。「ときに困難な場合、君を解放するのは音楽だけだった。スティーヴィー・ワンダーでないならば、君が手を伸ばすのはアース・ウィンド&ファイアーのアルバムだった」。

「中学生の頃、白人の子はツェッペリンを、黒人の子はパーラメントとファンカデリックを、変わった子はボウイを愛していた。でもみんながアース・ウィンド&ファイアーを愛していた」。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリーもこう語った。「彼らには抗えなかった」。

オンラインマガジンソング『ライターユニバース』にホワイトは「喜ぶこと、前向きでいること。それが僕たちのバンドの全体的な目標だ」と語ったという。「僕たちのゴールはすべての人に届けること、宇宙のムードを保ち、ポジティブなエネルギーを生み出すことだ。僕たちの曲はどれもポジティブなエネルギーを持っている。人々の気持ちを高める音楽を作ること、それが目的なんだ」。

Translation by Yoko Nagasaka

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