マドンナ ミュージックビデオベスト20:監督が明かす制作秘話

18『ミュージック』(2000)

マドンナがコメディアンのサシャ・バロン・コーエンを『ミュージック』のリムジンの運転手役に抜擢したとき、ちょうど彼は威張りくさった、ヒップホップ好きなイギリス人アリ・Gを演じて評判になり始めたときだった。しかし最初にマドンナから連絡があったとき、サシャは自分の耳が信じられなかったという。ハワード・スターンとのインタビューの中で、彼は普段とは違う様子で、マドンナの物真似をしている人だと思っていたと振り返る。10分ほどたって、彼は自分が誰と電話で話しているのかに気がついたという。「マドンナは彼のことが大好きなの」とマネージャーのカリッサ・ハワードはこのクリップが公開されたとき「デイリー・レコード」誌に語った。「彼はとても愛らしい。彼女は未だに笑いが止まらない状態よ。彼女はテープを見て、彼のことを素晴らしいと思った。彼の世代におけるピーター・セラーズだって」。頭のイカれたような『ミュージック』のビデオは2000年4月に撮影された。このときマドンナは息子のロッコを妊娠していた。監督のジョナス・アカーランドが作り上げた作品はこの事実にうまく対応している。セットがリムジンの後部座席でカット割りが早かったおかげである。しかしこのクリップは最後でマドンナの妊娠を認めている。マドンナが「ママ」と書かれた大きなネックレスを堂々と見せるのである。

監督 ジョナス・アカーランド: 
対話という表現方法を取っている。そういうミュージックビデオは当時あまりなかった。僕たちはコメディアンを出演させたかったんだ。マドンナはクリス・ロックや素晴らしいコメディアンたち何人かと友達だった。でも僕はちょうどそのとき、ロンドンで生まれたアリ・Gというキャラクターを演じていたサシャ・バロン・コーエンに注目していた。僕はマドンナにこう言った。「お願いだからこの男を見てみてくれ。彼は素晴らしいよ」って。当時アメリカでは誰も彼のことを知らなかった。彼らはついに対面してくれた。素晴らしいことだよ。考えがすぐに受け入れられたってことだから。

彼女は妊娠中だった。僕はそれを問題だとは思っていなかった。むしろ「それはクールだね! 外に出てパーティーして妊娠しようよ!」という感じだった。素晴らしいことだと思ったよ。でももちろん彼女はそれを隠したがった。だから彼女に大きくて素敵なファーを着せたんだよ。彼女はそれを着続け、顔のクローズアップを多くした。わかるだろう?

一つ覚えていることがあるよ。撮影日に大きな議論になったんだ、「フェドラ帽? それともカウボーイハット? フェドラ帽とカウボーイハットのどっちがいい?」って。迷ったよ。フェドラ帽でも2シーンくらい撮影したと思う。今でもマドンナのコンサートに行ってカウボーイハットをかぶった人を見るといつもそのことを考える。「みんな、フェドラ帽になったかもしれないんだよ!」ってね。

リムジンの中は全部グリーンスクリーンだった。僕たちは本物のリムジン、金色のを一台手配していた。大きい車だよ。ひどい車で内装は何もなかったんだ。本当にひどい車だった。でも彼女が友達と一緒にパーティーをしているシーンは、ここLAのセットで撮影した。

実際に撮影したのはチャーリー・チャップリン・スタジオだった。ストリップクラブの道路を挟んで向かい側にあるんだよ。だからとても便利だった! 道路を渡って、ストリップのシーンを撮りに行けばいいんだからね。僕はストリップクラブで有名みたいだよね(笑)。あれは僕のアイデアだったと思う。でもストリップクラブなしで何のパーティーだい? 今はそういうことは言わないけれど、当時はそれがナイトライフの大切な部分だと思っていたんだ。

17『フローズン』(1998)

アルバム『レイ・オブ・ライト』のファーストシングルの凍るようなミュージックビデオを監督したのはクリス・カニンガムだ。彼が監督したエイフェックス・ツインの『カム・トゥ・ダディ』の不気味なクリップがマドンナの注意を引いたのである。マドンナは1998年、MTVに「私たちはアイスランドで撮影しようと考えていたの」と語った。「でもその後考えたの。凍えるってことがわかってるわよね。惨めな気分になって、一日中不平を言うだろう。寒い場所を選んだことを後悔するはずだって。だからこう言った、「砂漠でやりましょう。暖かいはずだわ」って。しかし天気は協力してくれなかった。「砂漠に行ってみたら、氷点下20度くらいなの。ものすごく寒くてしかも私は裸足だった。私はビデオ全編でずっと裸足だったの。そのうち雨も降り出して、みんな本当に体調が悪くなってしまった。結果としては本当に惨めな経験だったわね」。カニンガムもこの仕事にフラストレーションを感じている。もともと彼はこのクリップをもっと精巧な、特殊効果を生かしたものにしたかったのだ。「砂漠にたくさんの人体が積み重なっているというようなものを、もともと表現方法として考えていた。象徴的に示した彫刻はすべて人体でできている。その人体は全部、複製されたマドンナなんだ」と彼はDVD『Director’s Label』のブックレットの中で語っている。「彼らが分裂してバラバラになり、カラスに変身し、そして犬に変わる。ただのパフォーマンスビデオではあるけれど、マドンナや彼女の衣装、彼女の服で作られる様々な形を使ってとても精巧に仕上げた」。フラストレーションがあるにもかかわらず『フローズン』のビジュアルは素晴らしい。マドンナは黒いうねりのような衣装を身にまとい、刺青が彼女の手を覆っている。そして荒涼とした砂漠を背景にその形が変容していく。

16『バーニング・アップ』(1983)

マイケル・ジャクソンの『ビリー・ジーン』、エディ・グラントの『エレクトリック・アベニュー』、トトの『アフリカ』のミュージックビデオを監督したスティーブ・バロンは1983年最も人気のあるミュージックビデオ監督の一人だった。マドンナは『エヴリバディ』というシングルをリリースしているが、これは彼女の名前で出しているのにチャートの100位に入らなかった。しかしワーナー・ブラザーズには自分たちがスーパースターを擁していることがわかっていた。バロンは彼女の最新の曲を聞き、実際に知らない歌手に会うことよりも休暇を続けることを選んだ。『バーニング・アップ』は「自分に話しかけてこなかった」とバロンは語る。「もっとポップな楽曲が来たら、どうやったらいいのかもわからなかっただろう」と監督は語る。彼は彼のビデオ監督時代を振り返り『Egg n Chips & Billie Jean』という回顧録を発表している。「それは徹底的にポップなものになっただろう。でも僕はまったくポップではなかった」それにもかかわらず、彼のビデオは初期のMTVが自由気ままだった証拠であり、光に照らされたバストと水の上を走る車、そして道の真ん中で身をよじるという完全に異なるイメージを並列的に提示している。もちろん最後に車のハンドルを握るのは彼女だ。

監督 スティーブ・バロン: 
ロサンゼルスにいたプロデューサーのサイモン・フィールドから電話をもらったんだ。彼はそこそこの予算が使えるビデオがあって、それはとても規模の大きいものになるだろうと言った。僕はそのとき休暇中で、何かに頭を突っ込みたいとは本当に思っていなかった。でもマドンナが『ビリー・ジーン』のビデオにとても夢中になっていると知って、僕は最終的には渋々同意した。楽曲をもらってから、僕はこれをどうしたらいいのかわからないと言ったんだ。僕がいつも楽曲の中に探しているようなムードがこの曲にはなかったから。

その紙には「ペントハウススイート」と住所が書いてあった。だから僕は彼女がとても金持ちか、家族が金持ちなんだろうと思った。彼女の澄んでいるビルの最上階のドアが開いたとき、あったのはボロボロになった階段で「ペントハウススイート」と階段を指す矢印が書いてある紙皿が割れ目の入った壁にテープで止めてあった。

音楽は最上階で鳴っていた。大声でわめいたよ。「こんにちは」って。さらに2回くらい大きな声で怒鳴った。ドアを開けて廊下を歩いて行くと、そこに彼女がいた。裸で、下着だけを身につけた姿で床の上でエクササイズをしていた。大きなスピーカーとアンプがあった。家具はそれだけだよ。彼女はとても自信を持っているように見えた。

僕たちはロサンゼルスで2晩かけて撮影した。最終的に僕のアイデアブックの中のものをたくさん使うことになった。主に楽曲からのアイデアとは対極のものだった。僕はこの楽曲にあまりつながりを持たなかったから。このビデオはちょっとごたまぜ風だ。彼女は私を絶対的に信頼してくれた。彼女は任せてくれたけれど、今から考えると彼女はおそらくそうするべきではなかっただろう。しかし彼女は明らかに自分がどう見えるか、どういう服を着るかについてコントロールしたがっていた。彼女にとってドレスは話し合いをしたいと思うような最重要事項だった。

彼女がボートに横たわって歌っているシーンは夜に撮影した。7トンのクレーンを湖の上に伸ばし、そこにカメラと僕、荷物が乗った。彼女の真上に来るように操作して、まっすぐ下に彼女が見えるようにしたんだ。ボートはその位置で碇を下ろしていた。そしてクレーンの土台の大きな車輪は湖の中に入って行く小さな坂道の部分に置かれていた。僕は「マドンナの目のすぐ上の位置に来るようにしよう」と頼んだ。僕たちはマドンナの15フィートくらい上にいた。坂道を振り返ると、後部車輪が1フィート半くらい上がっているのが見えた。誰も気がついていなかった。僕は振り返って、クレーンの操縦をしていた人に止めるように言った。ぐらぐらして前後に揺れていた。操縦者はすぐにスイッチに飛びついて、僕たちを後ろに戻し始めた。でも彼は素早く動けなかった。もし何か動きを起こしたらクレーンは倒れるだろうと感じたからだ。僕たちはちょうど均衡のとれている点にいたんだ。僕たちは彼女を船から下ろした。彼女は100パーセント死んでいただろうね。本当にすれすれのところだった。そのことをその夜は彼女に話さなかった。怖がらせたくなかったからね。僕たちは半年入院することになっただろうし彼女は死んでいたよ。絶対にね。

Translation by Yoko Nagasaka

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