キング牧師が大統領選に立たなかった理由

昨年8月のこと、クリントンは、ニューハンプシャー州で予定する遊説のうちの1カ所で「Black Lives Matter」(黒人の命だって大切だ)の活動家が抗議行動を計画していることを知り、活動家たちと舞台裏で会うことに応じた。クリントンは15分間ほどの対話の中で彼らに対し、議会や法廷で通用するような特定の政策提案に的を絞るよう促した。クリントンは「あなたがたが人々の心を変えられるとは信じていません。私が信じているのは、あなたがたが法律を変えること、予算の配分を変えること、システムの動き方を変えることです」と言った。

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ヒラリー・クリントン (Photo by Darren McCollester/Getty Images)

このスタンスは、政府内の議論の中で改革を迫る(あるいは迫れなかった)というクリントンのキャリアと一貫していた。クリントンが活動家たちに言ったのは、要するに、何かを成し遂げるにはシステムの内側で動く必要があるということだった。

これは特異なスタンスではない。しかし、キングはかなり異なる捉え方をしていた。それは、今日では「市民的抵抗」として知られるものに通底する捉え方だった。ジーン・シャープなどの理論をふまえて、この立場を取る学者たちは、権力は一般的に考えられているよりも広く分散していて、企業のCEO(最高経営責任者)も軍の将官も上院議員も、すべてのカードを握っているわけではないと論じる。不動の独裁者であっても、権力を維持するには国民の追従に頼らなければならない。十分な数の人々が既成の秩序に協力しないことを選択すれば、その秩序に依拠している指導者たちの地位は崩れることになる。

市民的抵抗による運動は、政治の「取引」モデル──ワシントンの中で何が実現できるかという通念に基づいて小さな前進を引き出そうとする──の域を越えることができる。社会を揺るがす劇的な抗議行動を通じて政治情勢を変え、変革の新しい可能性を生み出すのである──現実味が薄いような要求を喫緊の優先事項へと変えて。

同性婚をめぐる最近の勝利が好例だ。この勝利は、政府高官の政治的リーダーシップから生まれたものではない。活動家たちがすでに世論という場で勝ち取っていたものを裁判所が認めたことで、確立されたのだ。ヒラリー・クリントンを含む政治家たちは、世論が決定的に変わったことが明白になった後で、この問題に対するスタンスを「進化」させたにすぎない。

若き日のマーチン・ルーサー・キング・ジュニアであれば、変革の生まれ方に対するクリントンの見解に共感をいだいたかもしれない。1955年と56年にキングは、ほとんど偶発的にモンゴメリー・バス・ボイコット事件のリーダーに押し上げられた。その後の数年、キングが新たに結成した南部キリスト教指導会議(SCLC)は性格があやふやなまま、おおむねロビー活動に法的措置という従来の戦略にとらわれていた。そのキングを、最大の抵抗手段としての非暴力の直接的行動へと向かわせたのは、1960年の学生によるグリーンズボロ座り込みと61年のフリーダム・ライドだった。

Translation by Mamoru Nagai

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