公開から30年、『スタンド・バイ・ミー』が色あせない理由

テレビドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』からさかのぼること30年、1986年のロブ・レイナー監督映画『スタンド・バイ・ミー』は、青春とノスタルジア、死体を掛け合わせた成長物語の金字塔となった。(Everett Collection)

1986年のロブ・ライナー監督によるスティーヴン・キングの短編小説の映画化は、青春、ノスタルジア、死生観、を掛け合わせた成長物語の金字塔となった。

焼けるような暑さの夏の日、近所に住む4人の少年たちは、ガラクタ置き場の送水ポンプのそばの日陰で喉を潤し、だらだら過ごしながら暑さをしのごうとしていた。4人は涼を得ると、数フィート離れた先の古びた缶の中にだるそうに小石を投げ入れながら、『ミッキーマウス・クラブ』の出演者、アネット・ファニセロの胸は膨らみ始めているかという何の役にも立たない推理をしながら暇な時間をやり過ごしていた。短い幕間の何もないひと時を楽しみながら、一人が幸せそうにつぶやいた。「なんていい時間なんだ」。このシーンは、1959年の労働者の日(9月の第一月曜日)の週末に特定されている。しかし、小さな不良少年たちのあまり純粋とは言えない純粋さは永遠だ。

1986年のロブ・レイナー監督映画『スタンド・バイ・ミー』は、今年で30周年を迎える。公開当時の興行収入は5230万ドルと比較的控えめだったが、その後、少年期と大人の境界線をまたぐ青春ノスタルジーの代表作に成長した。この映画(と原作のスティーヴン・キングの物語)で描かれているのは、大人の世界の残酷な真実が純粋な日々に取って代わる、誰もが経験する岐路の物語だ。子供時代の目隠しを失うという普遍的な過程をネタにした成長物語は無数にあるが、この冒険物語には2つの決定的な付加価値がある。一つは子供の生を構成する詳細を見逃さないレイナーの嗅覚、もう一つはキングの原作の持つ迫り来る闇だ。

この映画は、ベストセラー作家の短編『死体』を原作に、気楽な子供向けの冒険物語と、世界はどんなに残酷になり得るかという、知ったばかりの事実に踏み込んだドラマを足して2で割ったような作品だ。ある程度は、この前提の枠内に収まっている。

"訓練中"の4人組――穏やかで頭の良いゴーディ(ウィル・ウィートン)、ゴーディが信頼する仲間のクリス(リヴァー・フェニックス)、何をしでかすか分からないテディ(コリー・フェルドマン)、ずんぐりしたいじられ役のバーン(ジェリー・オコンネル)――は、町のどこかに地元の少年の死体があるという噂を聞き、発見できれば地元の英雄になれると考える。全シーンを通し、"スティーヴン・キング"という署名がスクリーンの隅に常に書いてあるかのように、死の気配が映画全体に重くのしかかっている。そしてその気配は、大人になったゴーディ(リチャード・ドレイファス)が、最後のナレーションで仲間たちのその後の残酷な運命を語るシーンまで覆い続ける。しかし、最も差し迫った危険は、死の中にではなく生の中にある。

『スタンド・バイ・ミー』は、大人の醜さに立ち向かうことを恐れないという点で、『グーニーズ』などの映画から一線を画している。『グーニーズ』は、『スタンド・バイ・ミー』同様に、ハチャメチャな子供たちが冒険の旅に出る、1000年愛される類いの映画だ。『スタンド・バイ・ミー』の4人組は、親からの粗雑な扱いや虐待の渦の中に閉じ込められているが、彼らは絶対にあきらめない。映画は暗に、テディの興奮しやすい振る舞いを父親との複雑な関係に結び付けている。テディの父親は第二次大戦で戦った退役軍人で、心的トラウマが原因と思われる衝動で息子の片耳を不具にしてしまう。(さらに胸が痛むのは、ガラクタ置き場の主が、テディの父親は「頭がイカれている」と挑発した時、テディが敵意をむき出しにして激高したところだ)クリスの家族は、犯罪者やアルコール中毒ばかりで、ゴーディは、兄(ジョン・キューザック)の死に対し、自分は生きているという深い罪悪感を抱えている。打ちひしがれたゴーディの両親は、周囲との関係を完全に遮断している。

Translation by Cho Satoko

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