公開から30年、『スタンド・バイ・ミー』が色あせない理由

少年たちは悲しみや悲劇に四方を囲まれてはいるが、それでも彼らは子供が生きるように生きている。レイナーは彼らをきめ細かく描き、微妙な年頃の人間がどのような独特なやり方で互いに関わるのか、誠実に捉えている。ブルース・エヴァンスとレイノルド・ギデオンの脚本は、少年たちが互いに優しさや友愛をもって接しながら、思春期に足を踏み入れたばかりの子らにありがちな、とりとめもなく冗談を言い合う姿を見事に捉えている。彼らは女の子について(もちろん完全に気取って)無駄口をたたき、キャッスルロックの真偽の怪しい伝説話で盛り上がる。復讐心に燃えた嘔吐発射装置と化したラーダス・ホーガン(ブタケツ)の挿話だ。レイナー監督はこの1年後、『プリンセス・ブライド・ストーリー』で口承文学の伝統への愛を惜しみなく発揮することになるが、『スタンド・バイ・ミー』では、このありえない話は物語の一端に微妙な変化を加えた。

「僕らは自分たちが何者で、どこに向かっているのかはっきり分かっていた」と、ドレイファスが演じる未来のゴールディは言う。その言葉は悲しい皮肉に満ち、少年たちがその後の人生で対峙することになる、予期せぬトラブルをにおわせていた。(クリスは後に偶然居た場所で殺され、テディは刑務所に入ったというナレーションが続く)この台詞は、2つの感覚を完璧に内包している。そしてその2つの感覚が重なり合うことで、この映画は不朽の青春映画となった。スティーヴン・キングが背景に忍び寄りつつある中、少年期特有の向こう見ずな無敵感が、スクリーンの枠の外に壊れた未来をちらつかせている。『スタンド・バイ・ミー』は、少年たちの視点でものを見るレイナーの才覚と、少年たちのその後に対するキングの残酷な意識が重なった結果、古き良き時代への抑制されたほろ苦い眼差しによって息の長い映画となった。

よく整備されたエンジンを動かしてきたのは、常にノスタルジアというガソリンだった。30年経った今も、映画の過去への執着は、この映画を当時から引き離している。より純粋だった時代に戻ることを切望することが、――その純粋さが単なる想像の産物かどうかはさて置き――あらゆる世代の観客を、絶えず一つにしてきた。(社会の大半が、80年代を舞台にし、その時代精神に浸るテレビドラマ、『ストレンジャー・シングス 未知の世界』に夢中になっているというほとんど完璧すぎるタイミングで、『スタンド・バイ・ミー』は節目となる30周年記念を迎える)。過去をしのぶ鈍い痛みは、2つのプロセスを通して思い出される。過ぎ去った日々への愛着から、次に黄金期が永遠に失われたことへの苦痛からだ。『スタンド・バイ・ミー』は今後10年先も、より甘味で憂いのある映画であり続けるだろう。時間と共に確実に良さが増していく、珍しい映画だ。

大人になったゴールディが、最後に思い出に添えるように口にする台詞は、核心に切り込んでいる。「12歳の時のような友人を、私はその後二度と持ったことはない。誰でもそうなのではないだろうか?」この大げさな質問への簡潔な答えは、もちろん、ない、だ。小石をガラクタに向かって投げたり、仲間とじっくりものを考えたりした子供時代と比較できるものなどない。その後の人生に何が待っているかを知った後で、どうして比較などできよう?




Translation by Cho Satoko

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