"パンクロック"という言葉を定義づけたザ・ラモーンズ―その結成から解散まで

By Mikal Gilmore 2016/10月号 P75〜81 |
1978年、サンフランシスコのオールド・ウォルドーフの楽屋にて。写真左から、ジョニー、ジョーイ、ディー・ディー、トミー Ed Perlstein/Redferns/Getty Images

ジョーイの元バンド仲間で見舞いに来たのは、ドラマーのマーキー・ラモーンだけだった。翌日、彼はロサンゼルスに住んでいたジョニーに電話した。「ヤツを訪ねてやれよ」とマーキーは言った。「窓は閉じられようとしているんだ」

「じゃあ閉じさせておけ」とジョンは答えた。「ヤツはオレの友人じゃない」。2001年4月15日、ジョーイの家族と数名の友人が彼のベッドを囲んだ。医師は人工呼吸器の電源を切った。ミッキーはジョーイが好きだった曲をCDラジカセで流した。U2の『イン・ア・リトル・ワイル』(ほんの少しの間/この痛みはもう痛まなくなる/私は家に戻るよ、愛する人よ))だ。曲が終わるまでに、ジョーイ・ラモーンは目を閉じた。49歳だった。

3年後、ローリングストーン誌のチャールズ・M・ヤングがジョニーにジョーイの葬式には行ったかと尋ねた。「いいや」とジョニーは答えた。「カリフォルニアにいたからね。わざわざニューヨークまで行くつもりはなかった。まあどっちにしても行かなかったけどね。オレなら自分の葬式にジョーイが来ることを望まないだろう。自分が死にかけている時に彼の声が聞きたいとは思わないはずだ。会いたいのは友人たちだけだ。どうか静かに死なせてくれ」

その頃、ラモーンズはようやく再評価されるようになった。2002年、ラモーンズはロックの殿堂に資格を得て1年目で入った。トミーはローリングストーン誌にこう語っている。「オレたちにとって大いに意味あることだった。この25年かそこら、仕事を続けてきたという自負があったからね。ただ、はっきりそう言うのは難しかった。あまりプロモーションをしてもらえたことがなく、レコードを店に置いてもらっていなかったから。(中略)それでも最初の投票で殿堂入りできて、"ワオ、オレたちは本物だったんだ。(中略)勘違いしてたわけじゃないんだ"っていう気分だった」。ジョニー、トミー、マーキー、ディー・ディーは受賞のためにステージに上がり、ジョニーからスピーチをした。彼は初期のマネージャーやレーベルのトップに感謝し、「ブッシュ大統領に神のご加護を。そしてアメリカに神のご加護を」とつけ加えた。次にトミーがスピーチした。「信じてもらえないかもしれないが、オレたちは互いに親切でなかった時でさえ、本当に愛し合っていた。本物の兄弟だった」。ディー・ディーはこう述べた。「自分におめでとうと言い、自分に感謝し、自分の背中をよくやったと叩いてやりたい。ディー・ディー、ありがとう。キミは本当に素晴らしかった。キミを愛しているよ」。誰ひとり、ジョーイの受賞に触れなかった。彼のトロフィは演台の上にぽつんと置かれていた。

その11週間後、ディー・ディー・ラモーンが自宅のマンションで亡くなっているのが発見された。死因はヘロインのオーバードースだった。「彼は死に近づいてドラッグを絶とうとしたが、誘惑に負けてばかりだった」とメルニックは書いている。「私の知る限りでは」とディー・ディーの最初の妻、ヴェラはつけ加える。「彼はあと1歩か2歩のところでソファにたどり着けなかった。ソファの背もたれに身を折ってかぶさり、そこで気を失って死んだ。バーバラ(ディー・ディーの当時の妻)が仕事から戻って来た時、彼はそんな状態だった」。暗い恍惚感が心と血管を駆け抜けて心臓を止める中で、彼はその経験を頭の中で曲にしていたのかもしれない。ディー・ディー・コルヴィンの葬儀は少人数で営まれた。墓碑銘にはこう書かれた。「オーケー・・・もう行かなくちゃ」

97年、ジョニーはいくらか問題を抱え始め、小便に難儀するようになった。彼は前立腺肥大だろうと考えていた。症状は悪化していった。栄養士に相談したが、何の助けにもならなかった。その後、血液検査と生体検査を受け、前立腺がんが発見された。彼は放射線治療を選択し、症状は少し緩和された。「それでも、がんで心身にダメージを受けた」とジョニーは『Commando』に書いている。がんは転移し、2004年6月、医師はリンダ・カミングスに夫の死を覚悟するように言った。

ジョニーの『Commando』は、いろいろな面で驚くほど率直に書かれている。「あれほど成功をおさめたが、オレは現役の間、憤怒と激情を持ち続けた。自分のイメージがあり、それが怒りだった。にらみつけ、うつむき、写真を撮られる時は、そんな自分に写るように心掛けた。ラモーンズは自分そのものであり、だからこそオレはステージ上で多くの人々が見たような人間でいた。(中略)引退して丸くなったようだが、97年に前立腺がんと診断され、なおさら丸くなった。そんな自分が好きかは分からない。丸くなったが、昔の自分の方が好きだった。もう怒るエネルギーも残っていないんだ」。本の終わりに、ジョニーは次のように書いている。「面白いことに、この最期の時を迎えるまで、自分が死ぬなんてまったく思っていなかった。自分の時間が限られていることを知ったが、いつ死ぬかを明確に意識したことはなかった。もし同じことが起きるなら、オレは治療を受けずにそのまま死んでいきたい。もう限られた時間をむやみに使うのはごめんだ。もちろん、今は分かっている。誰しも生きる時間は限られているということを。オレの時間は少し早めに終わろうとしている」。2004年9月15日、ジョニー・ラモーンは妻と友人数名に看取られながらロサンゼルスの自宅で息を引き取った。55歳だった。彼は翌1月に火葬された。同じ月に、4フィート(約120センチ)のブロンズ像がロサンゼルスのハリウッド・フォーエヴァー墓地でお披露目された。ジョン・カミングスが自費で立てたものだった。
Translation by Takamune Murase

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