"パンクロック"という言葉を定義づけたザ・ラモーンズ―その結成から解散まで

By Mikal Gilmore 2016/10月号 P75〜81 |
1978年、サンフランシスコのオールド・ウォルドーフの楽屋にて。写真左から、ジョニー、ジョーイ、ディー・ディー、トミー Ed Perlstein/Redferns/Getty Images

2014年7月11日、トミー・アーデライが胆管がんのためクイーンズの自宅で亡くなった。65歳だった。彼は長年連れ添った彼女のクラウディア・ティアナンとアンクル・モンクというブルーグラスバンドを組み、人生最後の10年間をひっそりと送っていた。

これでラモーンズのオリジナルメンバー4人全員が塵と消えた。


Michael Ochs Archives/Getty Images

血縁には抗えないものだ。兄弟の行為が許せなくていくら憎んでも、血のつながりを断ち切ることはできず、兄弟であることは変わらない。一方、多くのバンドが築くような仮のファミリーから抜け出すのは比較的容易に思える。単に音楽のためのパートナーシップ、せいぜい友愛関係にすぎない。しかし、その結束は血縁と同様に消しがたく、崇高で、痛みを伴うものだ。

バンドの解散後もジョーイ・ラモーンとジョニー・ラモーンを結びつけていたものがある。そのひとつが、ラモーンズがしてきたことの価値と永続性への信念だった。その信念を保つためには、何らかの形で互いを信じ合う必要があった。デヴィッド・フリッケによると、99年の時点でもジョーイはラモーンズを今なお勢いのあるバンドとして語っていた。「ラモーンズは、最高にファッキンなバンドだったし、今なおそうだ。(中略)ボクらがステージに出たときに感じたパワーはすさまじかった。まるで60年代のザ・フーを見に行った時のようだった。今ステレオでラモーンズを聴いてみても、最高だと感じる。そして聴きたい時にはいつでも聴ける。気分を高めたい時も、スリルが必要な時もね」

ジョニーはこう語っている。「解散後、ジョーイとはめったに連絡をとらなかった。2回か3回かな。(中略)ニューヨークのブロードウェイで『アンソロジー』のインストア・ライヴをやった時、調子はどうだと尋ねた。ヤツを死に至らしめたリンパ腫のことを知った後だった。"最高にいいよ"とヤツは返してきた。"ほんとかよ?"。オレはもう無理だと思ったね」

それでも、ふたりは大きな願いを常に持っていた。死の間際に訪ねてきたマーキーに、ジョーイはラモーンズの再結成はあり得ると思うかと聞いた。そしてジョニーは他界する少し前に、同じかなわぬ願いを持っていたことを認めた。彼はこう書いている。「オレの中では、完全には終わっていなかった。ジョーイが死ぬまでは。ジョーイがいないなら、もうラモーンズはできない。不愉快極まりないヤツだったが、替えがきかない存在だった。ヤツは実際、オレが人生で会ってきた中で最も扱いにくい人間だった。それでも死んでほしくはなかった。ヤツに対するオレの気持ちがどうだろうと、ヤツがいなければプレイしたいと思わなかっただろう。(中略)だからそうなってしまった時、これでラモーンズは終わったと思うと悲しかった。どうでもいいと思っていたのに、実際にはどうでもよくなかったから、おかしな話だ。突然、彼がいなくなって寂しいと思ったんだ」

ジョーイのいないラモーンズでプレイする気は、ジョニーにはまったくなかったということだろうか?「まったくないね。(中略)ジョーイがいなければオレはやらない。ヤツはオレたちのシンガーだった」

Translation by Takamune Murase

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