"パンクロック"という言葉を定義づけたザ・ラモーンズ―その結成から解散まで

By Mikal Gilmore 2016/10月号 P75〜81 |
1978年、サンフランシスコのオールド・ウォルドーフの楽屋にて。写真左から、ジョニー、ジョーイ、ディー・ディー、トミー Ed Perlstein/Redferns/Getty Images

バンドの形が出来上がるまでに数カ月を要した。ディー・ディーは歌いながら弾くことができず、ジョーイのドラムはまるでダメだった。ジョーイをリードヴォーカルにし、バンドの中心に据える案をトミーが出した。「ジョーイはオレの求めていたシンガーとは違った」とジョニーはのちに語った。「トミーに何度もそう言った。"見てくれのいいヤツをフロントマンにしたい"とね」。ディー・ディーの考えは違った。「ジョーイは完璧なシンガーだった。オレは本当に気味の悪いヤツが欲しいと思っていた。ジョーイは本当に奇妙なルックスで、ラモーンズにとって最高だった。ミスター・セックスシンボルみたいなものになろうとするヤツより、とんでもないルックスのヤツをシンガーにした方がいい感じになると思ったんだ」。のちにジョニーも認めた。「全部トミーが決めたことだが、結局その選択は正しかった」

望ましくない形も見えてきた。ジョニーは過去のサウンドを引き継ぐのはやめようと思った。ストゥージス、MC5、ニューヨーク・ドールズなど、それまでの数年間で彼らをインスパイアしたバンドからサウンドを拝借する考えはなかった。「オレたちがしたのは、ロックンロールから好きになれない部分を全部取り除き、残った部分を使うことだった。だからブルースの影響もなければ、長いギターソロもない。曲の邪魔をするものが一切ないんだ」と語るジョニー。ロックの余分な要素の代わりに、ドゥーワップやガールグループ、バブルガム(4人ともベイ・シティ・ローラーズが大好きだった)、そしてブライアン・ウィルソンやジャン&ディーンのサーフロックの要素が導入され、特徴あるメロディ―心地よい旋律と耳障りなサウンドが出来上がった。

仰々しいプレイや派手なプレイをしないドラマーがオーディションで誰ひとり見つからず、結局トミーがドラマーとして加入した時、ラモーンズのサウンドが完成した。「オレはギターと一体になりたかった」とトミーは2011年にモジョ誌で語っている。「たいていの人はベースとドラムが一体になるのがいいと思っている。(中略)でもオレはジョニーと一体化した。ディー・ディーのベースは、全体の基礎だったんだ」。その効果は素朴ながら、アバンギャルドでもあった。勢いのいい速弾きベースの上でアイデアが調和した。「オレたちはブロックコードを道具に使ってメロディを生み出し、アンプのディストーションから生じるハーモニックスからカウンターメロディを作り出した」とトミーはローリングストーン誌のティモシー・ホワイトに語った。「オレたちはサウンドの壁でリフでなくメロディを築いた。低くうなるコードのブロックで作った、曲の中の曲みたいなものさ」

ラモーンズは74年8月にニューヨークのCBGBで初ライヴを行い、およそ17分で少なくとも6曲を演奏した。安宿が並び、ホームレスのアルコール中毒者がたむろし、長らくみすぼらしい地域と見られていたマンハッタンのバワリーにあったCBGBは狭苦しいバーだったが、その後ニューヨークの最先端ミュージックシーンの重要拠点となった。オーナーのヒリー・クリスタルによると、ラモーンズの初ライヴは幸先の良いものではなかった。「私が見た中でいちばん混乱したバンドだった」とクリスタルは述懐している。「曲を始めたり止めたりの繰り返しだった。機材が故障し、互いに怒鳴り合っていた。演奏時間は40分だったが、そのうち20分は怒鳴り合っていた」。それでも客を呼べるようになり、クリスタルはそれから数年間で十数回、彼らにステージを任せた。


Jim Steinfeldt/Michael Ochs Archives/Getty Images

75年の初めまでに、ラモーンズはバンド力を磨いた。練習のたびに新曲を作るという目標のおかげで、オリジナルのレパートリーには事欠かなかった。メンバー全員がジョニーが着ていたようなレザージャケット、そしてすり切れたジーンズを採用。バンドというよりギャング団のように見えた。そしてステージ上でのゴタゴタもなくなった―メンバー間で会話せず、ギターのチューニングもせず、小休止を入れなかった。ギターとドラムの間で、トミーが求めていた一体感を生み出す方法も見つかった。ジョニーはボリュームを全開にして8ビートのダウンストロークでコードを刻んだ。常に存在していたが、ついに抑えきれなくなった"力"を感じさせるような音だった。

ラモーンズは認知され始めた。影響力のあるコラムニスト、リサ・ロビンソンがレコード会社幹部のダニー・フィールズに「このバンド、すごく気に入るはずだわ」と言った。ストゥージスやMC5と契約を結んだフィールズはCBGBで彼らを初めて見た時、こう思ったと言う。「"こりゃ圧巻だ。これ以上何が必要だっていうんだ?"ってね。最初の5秒のうちに、プレイし始めた瞬間から非常に気に入った。落ち着いて考えてなんていられなかったよ」。そのショーの後、フィールズはマネジメントを持ちかけ、サイアー・レコードとの契約を勝ち取った。ジョニーは、自分とグループには準備ができているように感じた。「75年の夏には、真剣に考え始めた」。ジョニーはロードマネージャーだったモンテ・メルニックの著書『On the Road With the Ramones』でこう語っている。「オレたちは他の誰よりも上だと感じていた。(中略)ニューヨークのシーンでオレたちにどうにか対抗できると思えたのは、(ジョニー・サンダース率いる)ハートブレイカーズだけだった。75年にマディソン・スクエア・ガーデンでプレイするレッド・ツェッペリンの映像を見て、こう思ったよ。"なんてこった、コイツらこんなクソだったのか"」
Translation by Takamune Murase

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