"パンクロック"という言葉を定義づけたザ・ラモーンズ―その結成から解散まで

By Mikal Gilmore 2016/10月号 P75〜81 |
1978年、サンフランシスコのオールド・ウォルドーフの楽屋にて。写真左から、ジョニー、ジョーイ、ディー・ディー、トミー Ed Perlstein/Redferns/Getty Images

トミー・アーデライは2作目と3作目の『リーヴ・ホーム』と『ロケット・トゥ・ロシア』(いずれも77年リリース)を出すまでは、ラモーンズにとどまっていた。この2枚の方向性は1作目と同じで、いくぶんサウンドは間延びしているものの、密度の高さは変わらなかった。注目すべきは、心の病をテーマにした曲が入っていることだ。『ギミ・キミ・ショック・トリートメント』と『ティーンエイジ・ロボトミー』(そして後で出される『アイ・ウォナ・ビー・シディテッド』)は、ジョーイとディー・ディーの経験をもとに作ったものと思われる。「オレたちはみんな、精神状態をできるだけ不安定にしようと努めてたんじゃないかな」とトミーはのちに語っている。そのトミーは、常にバンドメンバーと一緒にいる人生に耐えられなくなっていた。ラモーンズは絶えずツアーに出ていた。年間150公演を数年こなし、四六時中バンで都市から都市へと移動していた。互いのいやなところが目につき、しょっちゅう喧嘩をしていた。ある日、ロサンゼルスのホテル、サンセット・マーキスでジョニーとトミーが激しく口論した。「オレのバンドだ」とジョニーは叫び、「オレがこのバンドのスターだ。オマエじゃない! オマエに何ができるんだ?」と続けた。トミーはのちにこう述べている。「オレがバンドを乗っ取ろうとしているっていう被害妄想を、ヤツらは常に持っていた。そんなつもりはまったくなかったのに」

トミーがラモーンズのメンバーとして最後にステージに立ったのは、78年5月のCBGBでのライヴだった。ジョニーは引き留めようとした。トミーは説得に応じなかったが、次のアルバムの制作には関わることになり、エド・スタシアムと共同で『ロード・トゥ・ルーイン』(78年)をプロデュースした。トミーの代わりに、ヴォイドォイズなどのダウンタウンバンドでプレイしていたマーク・ベルがドラマーとして加入。マーキー・ラモーンを名乗った。こうして出来た『ロード・トゥ・ルーイン』は傑作だった。どこからともなく突然現れたバンドが、4枚連続で傑作をリリースしたのだ。だが、ラモーンズが傑作を出したのは、これが最後だった。


Ed Perlstein/Redferns

デビューから5年以上が過ぎた80年代初め、ラモーンズのサクセスストーリーはあらゆる面で破たんした。彼らの音楽は期待していたほど大衆受けしなかった。「絶望はしていないさ、まだね」とジョニーは語った。「もう2年待てばビッグになれるとは思わないけど」。バンド内の関係は緊迫し、むしろ悪化していた。多くの人はジョーイをラモーンズのフロントマンとみなしていたが(親しみやすく、ステージ上では威厳があり、インタヴューでも率直に話すようになっていた)、バンドを鉄拳で統率していたのはジョニーだった。遅刻した者やライヴでヘマをした者に罰金を科すことを決めたのも彼だった。彼は人を怒鳴りつけ、引っぱたいた。「ジョンがホテルの部屋で(彼女の)ロキシーを押したり叩いたりするのがよく聞こえた」。マーキーは自伝『Punk Rock Blitzkrieg』にこう書いている。「彼女がよろけ、薄い壁に叩きつけられ、それからベッドに倒れて悲鳴を上げているのが聞こえた」。ダニー・フィールズはモジョ誌でこう述べた。「ディー・ディーはジョニーを恐れていた。よく顔面を殴られたからだ。(中略)それは決まってライヴの後で、"オマエ、CマイナーのところをBメジャーで弾いただろ"みたいなことが原因だった。私は控え室の外に立っていた。中でガラスが割れる音や、体が壁に叩きつけられる音が聞こえた」

ジョニーは間もなくして好敵手に出会う。プロデューサーのフィル・スペクターだ。78年、ラモーンズはロックの反骨を描いたミュージカル映画『ロックンロール・ハイスクール』への出演オファーを受けた。B級映画の帝王ロジャー・コーマンがプロデュースしたこの映画のタイトルトラックはファンには受けたものの、サイアーにとっては物足りない売り上げに終わった。ちょうどその頃、同レーベルはラモーンズが真の成功を収めるにはサウンドを変える必要があるという結論に到達。伝説のプロデューサー、スペクターに次のLP『エンド・オブ・ザ・センチュリー』を任せることに決めた。スペクターは長い間ラモーンズに関与したがっていた。「君たちは自分たちでいいアルバムを作りたいか?」と彼は77年、4人に尋ねている。「それとも私と一緒に最高のアルバムを作りたいか?」。しかし79年には、そのプロデューサーの名声は陰り始め、不気味な奇行が目立つようになっていた。一緒に仕事をし始めた頃、スペクターはバンドのメンバーを自分の邸宅に招待した。「注意書きがたくさんあった」とマーキーは書いている。「入るべからず、ゲートに触れるな、猛犬に注意。手作り感満載だったけど、そのせいでむしろ迫力があった」。スペクターはピストルを左右の腕の下に1丁ずつ携帯していた。そして周囲をボディガードで固めていた。彼はメンバーを朝まで帰さず、アンソニー・ホプキンス主演のサイコスリラー映画『マジック』を見せた。ディー・ディーは、ある夜帰ろうとしたら銃口を向けられたという。「ヤツは早撃ちのテクニックや一撃必殺のテクニックを全部マスターしていた」と彼は述懐している。
Translation by Takamune Murase

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