"パンクロック"という言葉を定義づけたザ・ラモーンズ―その結成から解散まで

By Mikal Gilmore 2016/10月号 P75〜81 |
1978年、サンフランシスコのオールド・ウォルドーフの楽屋にて。写真左から、ジョニー、ジョーイ、ディー・ディー、トミー Ed Perlstein/Redferns/Getty Images

なぜジョーイはこの時点でラモーンズを離れなかったのか?「ボクらはロックンロール・バンドの唯一の生き残りだ」と当時、彼は友人に言っていた。「ほかのバンドはみんなやめてしまったけど、ボクらは絶対にやめない。ずっとラモーンズであり続けていくつもりさ」

ラモーンズは秘密をしっかり守り続けた。ジョーイとジョニーの間に深い亀裂が入ってからも、10年半にわたって毎晩のようにステージを続けた。『エンド・オブ・ザ・センチュリー』以降、サイアーはラモーンズの音楽には問題ありというスタンスを取り続け、その後リリースした6枚のアルバムのうち5枚で新しいプロデューサーを起用した。『プレザント・ドリームス』(81年)、『サブタレイニアン・ジャングル』(83年)、『アニマル・ボーイ』(86年)、『ハーフウェイ・トゥ・サニティ』(87年)、『ブレイン・ドレイン』(89年)の5枚だ。このうち何枚かで、ラモーンズは自身の影と競っていた。彼らはより速く、よりハードにプレイしようとした。まるでブラック・フラッグ、フィアー、サークル・ジャークス、ディスチャージ、クラス、スイサイダル・テンデンシーズをはじめとするハードコアバンドに追いつこうとするかのように。これらのバンドが基本としていたのは、短い曲と高速ビートというラモーンズの原型だった。多くの面で、ラモーンズはアーティストとして成長していた。曲の内容は深まり、ジョーイのヴォーカルは個性をさらに増した。ある曲ではゆっくりと、またある曲では亡霊のように歌った。低調を打破した1枚が85年の『トゥー・タフ・トゥ・ダイ』。帰って来たトミー・ラモーンとエド・スタシアムのコンビが勝利を収めた。

ディー・ディーはそれまで常にドラッグでハイになった視点から曲を書いていたが、『トゥー・タフ』の『ハウリング・アット・ザ・ムーン』では自身の破滅を、うわべだけに見える人々の懸念に置き換えた(「法をとり上げて投げ捨てた/何も間違っちゃいないからさ/ただのお遊びなんだ」)。しかし困ったことに、ディー・ディーの問題は抑制不能であることが判明した。子供の頃からハードドラッグを使っていた彼は双極性障害と診断され、その治療薬とコカインを一緒に摂取しがちだった。ジョニーはライヴに支障がない限り、ドラッグの使用を容認していた。そして支障が出ることはなかった。(「ディー・ディーは肝炎を患ってツアーに出てもいいプレイができていた」とジョニーは言っている)。だが、ディー・ディーはラモーンズにもメンバーの喧嘩にも嫌気が差していた。彼は何かを変えようというシグナルを送った。ある日、髪を尖らせてゴールドのチェーンを巻き、これからはヒップホップだと言って現れた。彼はラップアルバムを作ろうとしていた。マーキーによると、ディー・ディーはバンの後ろに座って「オレはニグロ! オレはニグロ!」と騒いでいたことがあった。ジョニーはそれに激怒し、「いやオマエは違う」と言ってこう続けた。「オマエはラップなんてできないクソったれの白人だ」。ディー・ディーは実際88年にラップアルバム(のようなもの)をディー・ディー・キング名義で出した。このアルバムはあらゆる面で失敗に終わり、ある批評家は「史上最悪のレコードのひとつ」と切り捨てた。89年、ディー・ディーは思っていたことを実行に移した。ラモーンズを脱退し、他のメンバーを驚かせた。特にジョニーは不意を突かれた。「なぜ一緒にやっていけなかったのか、オレには分からない」とディー・ディーはのちに書いた。「人生で何かを成し遂げるのは大変だ。オレたちは成し遂げた時、すべて投げ捨ててしまった」

クリストファー・ジョセフ・ウォードが89年にディー・ディーに代わってベース担当となり、CJラモーンを名乗った。そして96年の解散までバンドにとどまった。ディー・ディーはラモーンズに引き続き楽曲を提供し、『モンド・ビザーロ(狂った世界)』(92年)と『アディオス・アミーゴス(さらば友よ)』(95年)のために秀作を書いた。彼は複雑でクスリに侵されていたが、ラモーンズにとって不可欠な存在であり、このバンドの栄光と挫折のストーリーの中心にあった。彼がいなければ、ラモーンズはその存続期間のどの時点においても最高の音楽を作れなかっただろう。
Translation by Takamune Murase

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