ブリティッシュ・インヴェイジョン:ビートルズから始まった英国ミュージシャンのアメリカ制覇

Parke Puterbaugh | 2016/10/01 14:00

| 日本武道館公演時のビートルズ (C)Apple Corps Limited. All Rights Reserved. |


トラッド・ジャズのムーブメントから派生した有望な音楽のひとつが、ジャグ・バンドのスタイルを簡略化したスキッフルだった。イギリスで最初のスキッフル歌手は、ロニー・ドネガンだった。鼻にかかったアメリカ訛りで歌う彼は、主にレッドベリーやウディ・ガスリーの曲をカヴァーし、50年代後半にヒットを連発した。事実ドネガンは、56年の『ロック・アイランド・ライン』と61年の『しゃぶるのはおよし』の大ヒットで全米チャート入りした―それは、イギリスがアメリカの曲をリメイクしてうまく売り込むことができるという前兆だった。後にビートルズとなるジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リチャード・スターキーといったイギリスの若者たちは、これに気づいていた。イギリスのポップ・カルチャー史上、スキッフル以前に起こった唯一の変化は、55年にビル・ヘイリーの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』(レコードと、曲がオープニングで使用された映画『暴力教室』)がイギリスに上陸した際、青少年の非行が一時的に急増したことだけだった。

リバプールの港町で、レノン、ハリスン、マッカートニーが最初にザ・クオリーメンを結成した。ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグス、ザ・シルヴァー・ビートルズと、幾度かのバンド名変更を経て、60年代に入るとシンプルにザ・ビートルズになった。マージーではある程度の才能が求められるため、ビートルズがすぐリバプール・シーンの中心となることはなかった。キャバーンというクラブで演奏するようになって評判を確立するまで、彼らはザ・ビッグ・スリー、ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズといった地元の人気者たちの背後に控えていた。ちなみに、後者のドラムは誰あろうリチャード・スターキー、後のリンゴ・スターだった。これらのマージー・バンドがプレイしたのは音圧を上げたビート・ミュージック―本質的にはスキッフルだが、アンプで音を増幅し、ヘヴィなリズム&ブルースの影響も受けている―で、リバプールの商船の乗組員たちがアメリカから持ち帰ったレコードに影響を受けたスタイルだった。


ザ・キンクス GAB Archive/Redferns

61年初頭、ビートルズはリバプールとドイツのハンブルクを行き来していた。ドイツでは黒のレザーに身を包み、カイザーケラーやスター・クラブといった怪しげなクラブでプレイしていた。しかし63年までには、バンドとしての地位、イメージ、レパートリー、ファン、マネージャー(地元のレコード店を営んでいたブライアン・エプスタイン)を獲得。その間、ベース(スチュアート・サトクリフ)を亡くし、ドラム(ピート・ベスト)を解雇、リンゴが加わって4人組として固まると黒いレザーと不良っぽい態度を脱ぎ捨て、身なりも整えていた。63年8月3日、ビートルズはキャバーンで282回目にして最後となるライヴを行った。彼らは既に『プリーズ・プリーズ・ミー』『フロム・ミー・トゥ・ユー』の2曲で全英ナンバーワン・ヒットを記録していた。キャバーンの最終公演からわずか1カ月後には、4枚目のシングル『シー・ラヴズ・ユー』がゴールド・ディスクとなり、イギリスでのシングル売り上げ最高記録(当時)を樹立した。10月13日、テレビ番組『サンデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディウム』で演奏した際は、およそ1500万の国民が視聴した。彼らが演奏するところ、どこでも人だかりができた。

「これがビートルマニアだ」とデイリー・メール紙は報じた。「いったいどこへ向かうのか?」―もちろん、失われた植民地である、世界一巨大なロックンロール市場へ向かっているのだ。
Translation by Naoko Nozawa

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