レッチリ、『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』の知られざる10の真実

Dan Epstein | 2016/10/22 17:00

| レッチリのブレイクのきっかけとなった91年の大ヒットアルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』の知られざる裏話を読む(Photo by Mark Seliger) |

幽霊のセックスやリヴァー・フェニックスから受けたインスピレーションまで、91年のオルタナティヴ・ファンクの名作の歴史を振り返る。

25年前にリリースされた『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』(BSSM)は、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(レッチリ)にとって、ターニング・ポイントとなった重要な作品だ。

カレッジ・ロックバンドとしての長い下積み時代(そして、88年のヘロインの過剰摂取による初代ギタリスト、ヒレル・スロヴァクの死を含め、途中で幾度となく行われたメンバー交代)という苦労を経験したものの、ロサンゼルス発のお下品なファンク・ロックの4人組は、90年代に突入した時点では「カルト・バンド」というステータスから脱却できないでいた。レッチリの通算4枚目で、EMIからのラストアルバム『母乳』(89年)は、スティーヴィー・ワンダーの『ハイアー・グラウンド』をロック・カヴァーしたことでラジオやMTVで流れ、レッチリ史上最も商業的成功を収めた作品となったが、全米アルバムチャート、ビルボード200では最高52位止まりだった。

しかしその後、レッチリは91年の『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』で一気にスターダムにのし上がる。ワーナーブラザーズ移籍後初、そしてリック・ルービンをプロデューサーに初起用したアルバムは、『ギヴ・イット・アウェイ』『アンダー・ザ・ブリッジ』『ブレーキング・ザ・ガール』『サック・マイ・キッス』という大ヒット4曲を生み出し、全世界で1300万枚、全米だけで700万枚のセールスを記録し、ビルボード200で最高3位を獲得した。広い芸術性と感情が詰め込まれたBSSMは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズというバンドが、靴下で陰部を覆い「女性の上でパーティ(パーティ・オン・ユア・プッシー)」(『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』収録の『パーティ・オン・ユア・プッシー(それは秘密です)』の曲名より)をしたいだけの、ただ下品な4人組バンドではないことを証明した。

『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』のリリース25周年を記念し、同アルバムの知られざる10の裏話を紹介する。

1. 当初バンドは、リック・ルービンを迎えることを渋っていた。

この時すでに、ルービンにはプロデューサーとしての輝かしい実績があったにもかかわらず、レッチリはルービン指揮のもとで、通算5枚目のアルバム制作をすることに抵抗を感じていたという。「最初、"わぁ、リック・ルービンか。って、誰だよ"って感じだったんだ」。 91年に米BAM誌に対してアンソニーは、こう当時を回想していた。「"彼はスレイヤーとかダンジングとか、そういうネガティブなバンド全般が好きなんだな。レッド・ホット・チリ・ペッパーズはいつでも、ポジティブなエネルギーを好むんだよね。うまくいくわけない"(って俺は思ったわけ。)それが、彼のことを知っていくと、実際にどれだけクールな男かってことが分かってくるんだ」。ルービンとのBSSMの制作がポジティブで有益あったことを実感したレッチリは、続くアルバム5枚でもルービンをプロデューサーに迎えることになった。
Translation by Miori Aien

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