東京拘置所の麻原から、政治家、戦場までを撮る、報道カメラマン・宮嶋茂樹という生き方

By Joe Yokomizo 2017/月号 P76〜79 |
ローリングストーン日本版WINTER号/連載 煙たい男たち/宮嶋茂樹 Photographs by Maciej Kucia(AVGVST)
連載 煙たい男たち|宮嶋茂樹

飼い慣らされるのは嫌ですね。

報道カメラマン・宮嶋茂樹。通称、"不肖・宮嶋"。不肖と言うだけあって、取材での対応は驚くほど丁寧で物腰は柔らかい。だが、面と向かうと人間としての芯の太さみたいなものが、自然に伝わってくる。29歳から嗜んでいるという葉巻を口にすると、それがさらによくわかる。会社員であればもう管理職になっていてもおかしくない年齢だが、長年フリーランスとして現場で写真を撮り続けてきた芯の太さが、煙を燻らすその姿からも滲んでいる。

写真は子供の頃(8歳)に始めたという。子供がカメラを持てるような時代ではなかったが、父親から譲りうけて写真を撮るようになり嵌った。そして、大学は日大芸術学部写真科に進んだ。こうして書くと、インテリ、エリートな写真家の風だが、実際の宮嶋は全然違う。

そもそも宮嶋が影響を受けたのは、戦場カメラマンのロバート・キャパと一ノ瀬泰造だった。キャパは自伝『ちょっとピンぼけ』で博打に狂う人生を告白しているし、一之瀬も『地雷を踏んだらサヨウナラ』で、戦場カメラマンといういわゆる正義の写真家のイメージとは違い"血が見たい""戦争でどっちか勝とうが負けようが関係ない"という本音を吐露している。そんな世間の常識やル―ルにとらわれない2人に影響を受けた宮嶋の人生もまた品行方正という言葉からはほど遠く自由奔放な人生を歩んできた。

宮嶋の著書を読むとわかるが、ゴミ貯めのように物にあふれたアパートに棲みながらも、乗っている車はベンツ、離婚歴もあり風俗通いも極々当たり前。取材でそこを突っ込むと「女性には若さや容姿よりもテクニックを求めるので」と持論を展開して笑わせてくれた。

宮嶋は大学を卒業し、講談社が創刊した写真週刊誌『フライデー』の専属カメラマンを務める。その間、フィリピン政変が起きた(1986年)。宮嶋はフィリピン政変をどうしても撮りたかったが、会社は出張させてくれなかった。その不自由さに苛立ち、結局専属カメラマンを辞めてフリーランスになった。そして、今に至るまで、自分が撮りたい写真はどんな泥臭い手を使ってでも撮り続けるという姿勢を貫いてきた。

宮嶋の名前が世に知られたのは、オウム真理教教祖・麻原彰晃の東京拘置所での写真が『週刊文春』に掲載された時だろう。麻原が逮捕された当時のスクープ合戦は熾烈を極め、テレビも新聞も雑誌も、逮捕後の麻原を撮るのに躍起になった。すでにフリーランスのカメラマンとなっていた宮嶋もその一人で、麻原が警視庁から東京拘置所に移送されるチャンスに身体を張って臨んだ。当日宮嶋は、護送車両が通過する高速道路の料金所の屋根から麻原を狙う計画だったが、直前に警察の介入があり、あわてて高層ビルの屋上に移った。そこから麻原が乗った車両を狙ったが結局撮り逃がした。肩を落として出入りしていた『週刊文春』編集部に戻った。そこでヘリコプターから撮った東京拘置所の映像をテレビニュースで観て、拘置所内の麻原を撮影できる場所を見つける。そこからの行動は早かった。4トントラックを調達、そのなかで同僚のカメラマン、大倉乾吾と麻原撮影の瞬間を待った。そして......張り込みから11日目、超望遠のレンズで拘置所内の麻原の撮影に成功した。

本人は「運に恵まれましたね。拘置所に移ったばかりだったし、初公判の直前で法務省も油断していたと思うので。好条件が重なったから撮れたんですよ」と謙遜する。だが、好条件が重なったとはいえ、撮影に成功したのは宮嶋と、同じトラックで交代で番をしていた大倉の2人だけ。やはり、これは気力というか、執念の賜物だ。運だけではないのは誰の目にも明らかだ。

運と言えば......こんな話もある。韓国での撮影時、食あたりになり、ウンコをもらしながら暴動を撮影して結果スクープをあげた。

RECOMMENDED

TREND