映画『沈黙』:M・スコセッシが宣教師のドラマを通じて信仰を問う

映画『沈黙』:M・スコセッシが宣教師のドラマを通じて信仰を問う。(C) 2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

巨匠マーティン・スコセッシが、日本で迫害されたキリスト教司祭の苦悩を描いた『沈黙』は、彼の映画史上最もスピリチュアルな作品となった。

神は死んだのか。もしそうでないなら、なぜ神は沈黙を貫くのか。まるで人々が苦しんでいるさまなど何も見えない、何も聞こえないかのように振る舞うのか。マーティン・スコセッシの映画『沈黙』は、腹立たしいまでにつかみどころのないわずかな答えを引き出すべく、目眩がするような断崖に恐れずに飛び込み、深淵に潜り込んでいくような映画だ。

敬虔なカトリック教徒として育ったスコセッシ監督は、以前にも『最後の誘惑』『クンドゥン』で直接的に、『ミーン・ストリート』『タクシー・ドライバー』『レイジング・ブル』『ケープ・フィアー』では暗に、流血描写をもって信仰というテーマに挑んでいる。このイエズス会の司祭の物語は、長きに渡り彼の情熱の企画と呼ばれていた(不適切な呼び名だ)。どういうことかと言うと、御年74となるスコセッシは、80年代後半に遠藤周作の『沈黙』(1966)を読み、以来ずっと本作の映画化に向け奔走してきたのだ。遠藤周作は日本のカトリック教徒で、17世紀の日本に命がけでキリスト教の布教を試みたポルトガルの宣教師たちの物語に深遠な何かを感じて、本作を書いたのだった。


猛烈な存在感と生命力で主人公ロドリゴを熱演したアンドリュー・ガーフォールド。(C) 2016 FM Films, LLC.  All Rights Reserved.

これが、スコセッシが描かずにはいられなかった精神的探求の旅路、いつまでも記憶に残る映画『沈黙』だ。主人公の司祭セバスチャン・ロドリゴを演じたのは、猛烈な生命力をたたえた瞳の俳優、アンドリュー・ガーフォールド。禁欲主義の聖人を思わせるやせ細った体のアダム・ドライバーが、もう一人の司祭フランシスコ・ガルペを演じた。彼らの真に迫る熱演のおかげで、かつての師・クリストヴァン・フェレイラ(リーアム・ニーソン)を探してアジアへ向かう若い司祭二人の旅路を、観客も追体験できるのだ。

フェレイラは隠れているのか? 処刑されたのか? それとも結婚して、罪の意識に囚われながら仏教徒として生きているのか? 最後の可能性は、二人の若い司祭を絶望の淵に追い込んだ。そして、日本政府によるあまりにも未熟なキリスト教徒への迫害は、ロドリゴとガルペに衝撃を与えた。侍たちを牛耳っていた野蛮な領主たちは、隠れキリシタンたちを発見し、キリストが粗末に彫られた踏み絵を踏ませることに精を出していた。抵抗した者たちは、溺死、火あぶり、十字架への磔、わずかに首を切られ長時間かけて死に至る穴吊りなど、残酷な刑に処せられた。しかし、ジェイ・コックス(『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』)と共に脚本を書き上げたスコセッシは、そういった暴力描写にひたることなく、あくまで信徒を救うために踏み絵を踏まなければならなかった司祭たちの猛烈な苦悩を描くためにそれらを活用している。

この2時間40分の物語のテーマの根幹は、序盤にロドリゴが抱えていた疑念にある。この精神的探求に挑んだ映画が、マーベル・コミック以外の映画を滅多に見ない観客層に訴えかけるのは容易なことではないだろう。しかしスコセッシは、観客自身にそれぞれの感情や信仰、救済を思考してほしいと熱望する。そして物語後半、ニーソン演じるフェレイラ司祭が示した、神に対する強い信念と疑念に折り合いをつける覚悟。それは苦しみから逃れることではなく、人類とともに苦しみ抜くことを選んだ決意であり、特筆に値するものだ。

Translation by Sahoko Yamazaki

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