『ステイション・トゥ・ステイション』制作秘話:ボウイ「人生で最も深い闇と向き合った日々」

いつものように、ボウイは作業に没頭した。セッションに参加したミュージシャンたちは、急な召集にも対応を求められた。「スタジオを抑えていなかったある日の夜、私はレインボー・バー・アンド・グリルにいた」スリックはそう話す。「その日は体調が優れなかったんだが、店にローディーの1人がやってきて、奥にいた私を見つけ出すなりこう言ったんだ。『出動だ』深夜1時をまわっていて既にへべれけだと返すと、彼はこう言った。『それでもいい。デヴィッドがスタジオで待ってる。車を外に待たせてあるから急げ』私は会計を済ませて車に飛び乗り、結局一晩中演奏した。そういうのが日常茶飯事だったんだ」

ビタンの参加もとっさの判断によるものだった。「(E・ストリート・バンドとして)『明日なき暴走』のツアーに出ていた1975年のその日、私はロサンゼルスのサンセット・マーキスに泊まっていた」ビタンはそう話す。「そこでアール・スリックとばったり会って、こう言われたんだ。『まさかここで会うなんてね。っていうのも、ちょうど君の話をしてたんだよ』その翌日にスタジオに顔を出すと、デヴィッドがいきなり『プロフェッサー・ロングヘアーを知ってるか?』って聞いてきたから、私はつい3週間前にヒューストンの小さなハコで彼のショーを観たばかりだと答えた。その場で彼の曲をプロフェッサー・ロングヘアー風に弾いてみせたことがきっかけで『TVC 15(ワンファイヴ)』に参加した私は、結局『野生の息吹』以外の全曲でプレイすることになった。自分のキャリアの中でも、あれはお気に入りのプロジェクトのひとつだね」

最初に完成を見たのは、ストレートなソウルを意識した『ヤング・アメリカンズ』に通じる『ゴールデン・イヤーズ』だった。ボウイ曰く「エルヴィス・プレスリーのために書き下ろしたがボツになった」という同曲は、アメリカとイギリスの両国でトップ10入りを果たした。

アロマーによると、強烈なファンクロック『ステイ』の完成がターニングポイントになったという。「あのイントロを弾くのは至難の技だった。荒れ狂う猛牛にしがみつくようなものさ」彼はそう話す。「そして有無を言わせないロックンロールっぷりが炸裂する。ファンキーなR&B調の曲にはもう飽き飽きしてたからね」

10分を超えるタイトル曲は、アルバムが示す新たな方向性を端的に表している。迫り来る汽車の音で幕を開ける同曲は、3分以上に及ぶスローでヒプノティックなインストゥルメンタルパートを経て、ようやくボウイのヴォーカルが登場する。威厳に満ちながらも謎めいたヴァースの後、突如高揚感を煽るグルーヴが渦巻き始め、長尺のワイルドなアウトロへとなだれ込んでいく。

また同曲には、エレクトロニクスとインダストリアルなリズムに傾倒しつつあったボウイの「テクスチャーとしてのサウンド」への関心が如実に反映されている。「今のお気に入りはドイツのクラフトワークというバンドだ」ボウイは当時そう話している。「彼らの音楽は生産性を向上させるためのノイズミュージックだ」

『ステイション・トゥ・ステイション』には、ドラッグ依存やパラノイア、そして不可解な偏執症等、ボウイが抱えていた心の闇を垣間見ることができる。「コカインの副作用とは無関係」彼は本作でそう歌っている。「これはきっと愛なんだと思う」本作のタイトルが指しているのは駅ではなく、ステーションズ・オブ・ザ・クロス(ピラトの家からカルバリのはりつけまで、イエスの出来事の間の連続した逸話を表する連続した14の絵、または彫刻の前で言われる14の祈りで成る礼拝)だ。またカバラ、オカルティストのアレイスター・クロウリー、そしてヨーロッパの様々なファシストについての神話等の影響も見られる。

「奥さんのことからドラッグまで、彼は家でも外でも様々なプレッシャーに晒されていた」そう話すアロマーは当時、ボウイの息子のゾウイの世話役になることも少なくなかった。「彼が苦しんでいるのは目に見えていたけど、私の役割はあくまで彼を仕事に集中させることだった。彼はプライベートな問題を、決してスタジオに持ち込んだりはしなかった」

『ステイション・トゥ・ステイション』の各面の最終曲は、それぞれトーンがまったく異なっている。ドラマチックな『ワード・オン・ア・ウイング』には、宗教に対するボウイの懐疑心が見て取れる一方で、アルバムの最終曲は「ソウルの大祭司」ことニーナ・シモンの1966年作『野生の息吹』のトーチソング調表題曲のカヴァーとなっている。1974年に親交を持った際に、ボウイは彼女にこう伝えたという。「あなたと同じ種類の人間はこの世にほとんど存在しない」(「彼ほど私が共感できた人物はいない」シモンはそう話している。「デヴィッドはこの世界の人間じゃないわ」)

「最初は(その2曲が)アルバムには合わないと思った」アロマーはそう話す。「でも実際には、あの2曲がアルバムに温もりをもたらしていたんだ。あの2曲はデヴィッドの苦悩に満ちた魂の叫びだ」

アルバムは1975年11月に完成した。その直後、イギリスで絶大な人気を誇ったラッセル・ハーティーのトークショーに衛星中継で出演したボウイは、番組内で引退宣言を撤回するとともに、新作の完成と6ヶ月に渡るワールドツアーの開催を発表した。

1976年2月、ロサンゼルスのアリーナで行われた3公演を終えたボウイは、ベル・エアーのマンションを引き払い、ヨーロッパに向かった。スイスでの短い滞在を経て、彼は新たな進化を遂げる舞台となるベルリンへと移り住む。

「1年後に自分がどこにいるのか想像もつかない」『ステイション・トゥ・ステイション』発表直後の1976年1月に行われた取材に対して、ボウイはそう答えている。「狂人、フラワーチャイルド、独裁者、あるいは聖職者、そういうものに惹かれるんだ」

Translation by Masaaki Yoshida

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