『マジカル・ミステリー・ツアー』:ビートルズのサイケなアルバムに秘められたストーリー

『マジカル・ミステリー・ツアー』に収録される曲は、1966年後半から仕上げ始められていた。マッカートニーに映画のビジョンのアイディアが浮かぶかなり前のことだった。1966年11月24日から1967年1月中旬まで、ビートルズは『サージェント・ペパーズ』に収録するつもりで、ジョン・レノン作の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」とマッカートニーの「ペニー・レイン」の2つの新曲に取り組んでいた。どちらの曲も、リヴァプールでの少年時代を回想した作品だった。EMIはバンドに対し、1967年1月末までにニューシングルをリリースするように求めていた。その前のシングル「イエロー・サブマリン」は前年8月にリリースされていて、当時としては、そのように長期間シングルのリリース間隔が空くことはあり得ないことだった。プロデューサーのジョージ・マーティンとしては、「ペニー・レイン」も「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」も、アルバムに先行してリリースしたくなかった。しかし、その時すぐにリリースできる楽曲がほかになく、結局1967年2月17日にリリースされた両A面シングルは、世界的なヒットを記録した。そして、アルバムに収録された残りの曲のイメージを連想させる作品でもあった:黙想的で、ドラッグにまみれ、少々ノスタルジックで、他のどの作品よりも独創的にオーケストラをフィーチャーしてアレンジされている。



『サージェント・ペパーズ』が完成に近づいたその年の春、マッカートニーはカリフォルニアを訪れ、ザ・ビーチ・ボーイズやママス&パパスのメンバーらと過ごした。カリフォルニアへ向かう途中でマッカートニーの頭には、行くあてのない気ままなバス旅行を撮影した1時間のドキュメンタリー映画のアイディアが浮かんだ。ケン・キージーと、メリー・プランクスターズという名のグループによるバスツアー(ファーザー号)のイギリス版という感じだった。マッカートニーは、映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の構想を描いた。さらにテーマソングも作曲し、1967年4月の終わりから5月初めにかけて行われたバンドのセッション中にレコーディングした。

引き続きバンドは、レノン作の『ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン』に取り掛かった。社会の成り上がり者を痛烈に皮肉ったこの曲は、バンドのマネージャーだったブライアン・エプスタインに対する当てこすりだとも言われている。当時、ビートルズとエプスタインとの間には緊張感が漂い始めていた。エプスタインがスタジオに現れ、「世界初の衛星中継による特別番組『アワ・ワールド』で新曲を発表する」とバンドに告げた時、寝耳に水の話にメンバーはひどく困惑した。その時レノンは了解したものの、その話をすぐに忘れてしまっていた。エンジニアのジェフ・エメリックが後日念押ししたところ、レノンは「え、そんなにすぐ!? 何か書かなきゃ」と慌てたという。

テレビ番組『アワ・ワールド』は、『サージェント・ペパーズ』がリリースされてから3週間と数日経った1967年6月25日に放送された。レノン自身が承知してしまったために作らざるを得なかった曲『愛こそはすべて』は、当時の社会現象「サマー・オブ・ラブ」を象徴する曲になった。衛星放送でビートルズは、事前に録音したバッキングトラックも使いながら、ライヴで演奏した。パフォーマンスには、ザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズも参加した。その頃レノンとマッカートニーは、ストーンズの「この世界に愛を」のレコーディングにも参加している。「愛こそはすべて」は急遽シングルとしてリリースされたが、そのときのB面は「ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン」だった。

『アワ・ワールド』の放送から1カ月半の間に行ったバンドとしての活動は、それだけだった。以前より生産性は落ちていたものの、その時はまだバンド内の不穏な空気は表面化しておらず、メンバー同士のコンセンサスに基づいて行動していた。「例えば、メンバーの3人が映画を作りたいと言っても、残りの1人が乗り気でなかったら、その話は流れただろう」と、当時のマッカートニーは語っている。1967年7月後半、レノン、ジョージ・ハリスン、マッカートニーの3人はギリシャへ旅行した。そこで彼らは島を購入してコミューンを形成し、レコーディングスタジオを作る計画を立てていた。

Translation by Smokva Tokyo

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