故ドロレス・オリオーダン「音楽に救われた」46年の生涯

1994年の夏、オリオーダンはデュラン・デュランのツアー・マネージャーだったドン・バートンと結婚した。のちにバートンの祖国カナダへ移住し、そこで3人の子どもに恵まれた。しかし程なく、彼女とクランベリーズは困難な状態に陥ることになる。クランベリーズの最初の2枚のアルバムをプロデュースしたステファン・ストリートが教えてくれた。「ドロレスは魂を削るほどの熱量でライブを行っていた。もしかしたら日頃から節制して、ちゃんと計算してやっていた可能性もあるが、僕の知る彼女はそんなタイプではなかった」。それが原因なのか、オリオーダンが慢性的に疲労困憊の状態で続けていた1996年のツアーは公演日程を減らすこととなった。コヴァックが言う。「アイルランドに飛んで行き、彼女を医者にみせる必要があったんだ。医者が『君にはツアーを行えるほどの体力がない』と彼女に忠告したよ。僕は彼女が健康問題と向き合うべきだと思ったけど、彼女は気にも留めなかったと思うね」

その後、クランベリーズが初期の頃と同レベルの成功を収めることはなかった。2001年にリリースされた5枚目のアルバム『ウェイク・アップ・アンド・スメル・ザ・コーヒー』はチャート最高位が45位だった。しかし、彼らのサウンドは前よりもエッジが強くなり、パンク要素が増え、それまでのファン層をしっかりと保持できていた。ファンにとって問題を抱えたオリオーダンは相変わらずポップスターだったのである。クランベリーズの音楽にも相変わらず需要があった。米テレビドラマ『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』や『ゴシップガール』、映画『ユー・ゴット・メール』など、サウンドトラックとして使われていた(エミネムの新作アルバム『リバイバル』収録の「イン・ユア・ヘッド」では「ゾンビ」のサビがサンプルされて使われている)。ホーガンが言う。「僕たちが20年前に作った曲を今でも耳にすることがあるし、今でもその曲に合わせて歌っている人を見たり、聴いたりするよ」





2003年にクランベリーズが解散した後、オリオーダンはソロアルバムを2枚作っているが、これはほとんど話題にならなかった。そして2009年、クランベリーズは再結成し、3年後にクランベリーズにとって最強のアルバムと呼ばれる『ローゼズ』をリリースした。しかし、オリオーダンの人生は相変わらずカオスにまみれていた。のちに彼女自身が告白したのだが、2012年には薬物の過剰摂取を自ら試み、飲酒問題も抱えていたらしい。結婚生活も2014年に終わりを告げ、同年、彼女は客室乗務員の足を踏み、警察官に頭突きをしたとして逮捕されたが、当時の彼女が精神的に病んでいたと認めた裁判官によって実刑を免れた(オリオーダンは警察官に「あんたに私は逮捕できない。私はアイコンよ!」と叫んだ)。このとき、彼女は双極性障害と診断されたのである。「ドロレスの人生はここ10年間、本当にたくさんのことが起きていた。良いことも、悪いこともね」とホーガンが言う。「でも、ドロレスと人々をつないでいたのは、彼女の正直さだったんだ。彼女は見たままの人間だったから」

Translated by Miki Nakayama

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