ビートルズのインド訪問50周年、あなたが知らない16の歴史的トリビア

13. マイク・ラヴが「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」に「ロシア」を入れた。

ビーチ・ボーイズがパリでユニセフのためのチャリティー・コンサートを行った後、マハリシはビーチ・ボーイズのヴォーカリストであるマイク・ラヴに瞑想の仕方を教え、これが意識を大きく変えるほどのインパクトをラヴに与えたのだった。彼の回顧録『Good Vibrations』によると、ラヴはリシーケシに招待され、到着した直後に自分の隣の部屋にポール・マッカートニーがいることを知った。ラヴの本にはこう書かれている。マッカートニーはある日、朝食の時にアコギを弾いていた。曲は彼が作っている最中の曲で、偶然ビーチ・ボーイズから影響を受けた曲だった。これが後に「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」となる。「僕は彼が何かを掴みかけていると思った。そこで『ねえ、ブリッジ部分でロシアの女の子のことを入れてみたらいいと思うよ。モスクワのオンナ、ウクライナのオンナみたいに……「カリフォルニア・ガールズ」で上手く行ったんだから、U.S.S.R.(ソ連)でも上手く行くんじゃない?』と彼に言ったんだ」と。

1984年のプレイボーイ誌のインタビューで、マッカートニーはこの曲の舞台裏をこう説明した。「あの曲はビーチ・ボーイズのパロディ曲として作ったんだ。それにチェック・ベリーの曲に『バック・イン・ザ・USA』があったから、そこから生まれたって感じだ。まるで彼女たちがカリフォルニアにいるような感覚で、グルジアの女の子とか、ウクライナのような地名を入れるアイデアが気に入ったんだ。それに国境を超えて仲良くしようという意味もあったし、今でもそれは意識しているよ。だって、クレムリンのボスたちは例外かもしれないけど、あの国の人たちは僕たちが好きだもの。子供たちもそうさ。その点がとても重要だと思う。未来の人類にとってね」

14. インドで作った曲の中には、ビートルズのアルバムに収録されなかった曲もあった。

ビートルスがインド滞在中に作った曲の多くは『ホワイト・アルバム』と『アビイ・ロード』に収録するために録音されたが、バンドのアルバムに収録されなかった曲の多くは後にメンバーのソロ・アルバムに収録された。特筆すべき曲の1曲目はジョン・レノンの「チャイルド・オブ・ネイチャー」だろう。この曲は後に作り替えられて「ジェラス・ガイ」というタイトルになり、1971年のソロ・アルバム『イマジン』に収録された。マッカートニーの曲では「ジャンク」と「テディ・ボーイ」だ。この2曲は1970年の彼のソロ・デビュー盤『マッカートニー』用にレコーディングされて収録された。

ハリソンがインドで作った曲も彼のソロ・アルバムに収録されている。その1曲が「ノット・ギルティ」で、これは1968年8月にビートルズが一度レコーディングを行っている。しかし、ハリソンは1979年のセルフタイトルのソロ・アルバムでもう一度録音し直した。「サークル」は1982年のソロ・アルバム『ゴーン・トロッポ』に収録されている。また、ハリソンは「サワー・ミルク・シー」もインドで作っており、これはジャッキー・ロマックスが録音し、アップル・レコードからリリースされた。「これはヴィシュヴァサラ・タントラという密教系の美学が基になっている」とハリソン自身が説明したことがあった。「つまり『ここにあるものは他にもある、ここにないものは何処にもない』だ。これは絵で、この絵をサワー・ミルク・シー、サンスクリット語でカラダディ・サムドラと呼ぶ。この「サワー・ミルク・シー」をアイデアとして採用したんだ。もし大変な状況にいるのなら、愚痴をこぼすんじゃなくて、行動を起こして変えろって内容だよ」 ビートルズはインドで作った楽曲をもう1曲録音した。それが実験的な楽曲「ホワッツ・ザ・ニュー・メリー・ジェーン」で、これは『アンソロジー3』に収録されている。また「Spiritual Regeneration」はインドで録音されたが、未だに発表されていない。

「ビートルズであることのプレッシャーがメンバー間に仲間割れを生じさせ、リシーケシへ行く前の数ヶ月間にあらゆる膿が表面に出てきた」と、ビートルズの伝記作家ボブ・スピッツがニューヨーク・タイムズ紙に語った。「リシーケシ到着後、彼らはそれまで重くのしかかっていた重荷をすべて外して、曲作りと創造性で再び結び付き、もう一度前に進めるようになったんだ」

Translated by Miki Nakayama

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