80年代生まれの焦燥と挑戦:こざき亜衣「メジャー or DIEの価値観」

Emiri Suzuki | 2018/02/23 12:35

| 漫画家のこざき亜衣(Photo by Miho Fujiki) |



― その頃に、今もジャケットを手がけられているバンド「MASS OF THE FERMENTING DREGS」とも出会われた、と。


こざき はい。当時私は個人のホームページを作りそこにイラスト作品を載せていたんですが、ちょうど私が大学を辞めたくらいの頃、ヴォーカルの宮本菜津子ちゃんがたまたまサイトに来てくれて。すごくいいのでフライヤーを描いてくれませんか、と。関西で女子高生ながらにバンドをやっているということで、デモを送ってもらって聴いたらすごくかっこよくて、すぐに直接会って意気投合しました。

― そこからイラストをたくさん描くように?

こざき CD屋さんでのアルバイトを辞め、漫画家さんのところでまたアシスタントをしつつ、雑誌の片隅に載るようなルポ・エッセイ漫画なんかも描いていました。絵というよりは構成力で勝負するようなものですね。たとえば裁判員裁判が始まるときに潜入取材をして漫画にしたり、映画の感想を漫画にしたり。あとはネット広告のイラストだとか。

― そういったイラスト仕事もされている漫画家予備軍の方は多いのでしょうか?

こざき いや、そんなこともないと思います。その頃の私はいただく仕事を全て引き受けていましたね。漫画家さんのアシスタントに週1、2回入りながら、イラストの仕事やルポ漫画の仕事をして。この調子で受けていけば、そこそこの生活をしていくことはできるなという感じだったんですが、続けていくうちに、これは私じゃなくてもできる仕事だな、と。自分にしかできない仕事をしないと、この先食い詰めるなと思い始めたのが24歳くらいの頃だったのかな。求められる仕事で喜ばれるのはうれしいけれど、やっぱり自分にしか描けないものを描きたい、と。

― やっぱり“漫画”だったんですね。

こざき 当時、私は漫画家でもなんでもないのに、漫画の絵の教本制作の仕事まで引き受けていたんですよね。漫画における人間の描き方をイラストで解説するんですけど、イラスト執筆だけではなく、構成から何から、全て1冊まるまる任されて。自分自身が勉強しながら描くことになったので、結果的にだいぶ上達しました(笑)。なので、教本を描きながら自分の投稿作を描くという、とんでもないことをしていましたし、世の中なんていい加減なものだなあ、とも思いましたよね。

― それはかなりの転換点だったのでは。

こざき やはり自分の作品を描かなくちゃ、と思いました。そして25歳の時に初投稿した作品で「ちばてつや賞」(一般部門大賞)を頂くことになったんですが、そこから連載にたどり着くまでが、またそれはそれは大変でした。

― 受賞したからといって、誰もが晴れて漫画家として食べていけるようになるわけではない、と。

こざき 受賞以降、私にあった根拠のない自信がバキバキに折れました。今までは課題が与えられ、それに対して応えさえすれば喜ばれたけれど、自分自身を見せてください、となると……お話ってどうやって作るんだろう、と。いざ描きたいものを描いていいんだよ、と言われると、自分には何もないんだ、という事実に打ち当たりました。何者かになるどころか、何者でもない自分をひたすらに突き付けられて。

― また越えるべきものがあったと。

こざき 賞を頂き短期連載をして、本格的な連載が始まる前に一度、アシスタントを辞めてるんですね。でもまったく連載が始められない、と悩んでいた時にもう一度アシスタントとして雇ってもらうことになったんです。昔は“アシスタントのまま終わるなんて”と思っていたんですが、今はそういう生き方も一つの選択だなと思いますね。自分でもアシスタントを雇うようになってから、彼らの助けなしに作品を作ることはできないし、アシスタント=作家予備軍というだけでなく、プロの職業としてちゃんと認められてほしいなと思うようになりました。自分ではそんなに描きたくはないけど、人の原稿を手伝うのが好きという人もいるんですよ。それに、プロにならなくても『コミティア』のような同人誌の世界で自分の作品を自由に発表する人もいますし。
Edited by Emiri Suzuki

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