DJプレミアが語る、キャリアを代表する15曲

ナズ『ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド』(1994年)

俺はラージ・プロフェッサーからプロダクションのあれこれを教わったんだけど、ある日彼がこう言ったんだ。「おいプリーム、お前に紹介したいラッパーがいるんだ。ナズってやつで、超ドープだぜ」『ライヴ・アット・ザ・BBQ』(ナズをゲストに迎えたメイン・ソースの曲)を聴いた俺は「何てこった」って感じで、すっかり虜になった。彼と話したくてライブに足を運んだんだけど、その時は「いつか一緒にできるといいな」とだけ言われた。その後彼がコロムビアと契約したと聞いて、俺はこう申し出た。「頼む!俺をアルバムに参加させてくれ!」

曲の冒頭で彼は「どう乗っかっていいかわかんねぇ」って言ってるけど、あれは本音だったんだ。俺はビートを組みながら、彼なら問題なく乗っかれるだろうと思ってた。大抵のラッパーは、冒頭から8小節目でラップし始める。それが基本なんだ。コンソールの前に座った俺がふと顔を上げると、彼は俯いたまま「どのタイミングで入りゃいいんだ」って呟いた。だから俺は「ツー、スリー」って感じで合図を出してやった。彼がヴァースを繰り出した瞬間、完全にブッ飛ばされたよ。


ギャング・スター『マス・アピール』(1994年)

この曲はちょっとしたジョークなんだ。当時ほとんどのラジオ局は、90年代初頭に流行ってたリアルなヒップホップに見向きもしなくなってた。俺たちは水増しされたような曲ばかりがもてはやされる状況を茶化してやろうと考え、グールーが『マス・アピール』(大衆受けの意)っていうタイトルを思いついた。(同曲のメロディは)エレベーターの中で階表示をぼーっと見てる時に流れていそうだろ?この曲は個人的にもお気に入りさ。今聴いても最高だね。

この曲のミュージックビデオも気に入ってる。今でこそ家も車もカネも持ってるけど、俺がブルックリンにいた頃に住んでた辺りで撮った最初のビデオだからね。撮影にはそのエリアを仕切ってるギャングやらドラッグの売人やらの許可が必要だった。奴らは誰にでも許可を出すわけじゃない。撮影が許されたのは、俺たちが当時から変わってなかったからさ。ミュージックビデオを撮らせて欲しいって伝えると、「好きにやりな。でも俺たちを映すんじゃねぇぞ」って言ってくれた。最近じゃ進んでビデオに出たがる馬鹿なやつらが、カネを見せびらかしたりしてムショに放り込まれてるけどな。俺たちはそういうやつらを「歩く起訴対象」って呼んでるんだ。

クルックリン・ドジャース95『リターン・オブ・ザ・クルックリン・ドジャース』(1995年)

俺たちがメジャーレーベルと契約できたのは、スパイク(・リー)のおかげだった。『マニフェスト』のリミックスが世に出た時、そのビデオを目にしたスパイクは、グールーの見た目がマルコムXに似てるっていう理由で、『ジャズ・ミュージック』が入ってる俺たちのアルバムを買ったらしかった。当時『モ'・ベター・ブルース』を撮ってた彼は、俺たちにサントラに参加しないかってオファーしてくれた。「この作品のために曲を書いて欲しい。でもディープなやつじゃなきゃダメだ、君らはまだ知識が浅いみたいだからな」そう言って彼が送ってきたポエムには、いろんなジャズのアーティストの名前が記してあった。(サントラに収録されている)『ジャズ・シング』はそのポエムから生まれた曲なんだ。クリサリス・レコードはあれを聴いて、俺たちと契約したいって言ってきたんだよ。

『クルックリン・ドジャース』は彼の映画、『クロッカーズ』のために書いた曲だ。ドラッグの売買や依存、非情さ、自己防衛の必要性、黒人を目の敵にするサツを描いたあの映画には、個人的にもすごく共感できた。あの(ヤング・ホルト・トリオの)サンプルに、俺はフッドの悲しい一面を思わせる何かを感じたんだ。フッドでの苦闘の日々の末に栄光を掴む人間もいるけど、あの映画で描かれているのは、俺が考えるフッドのあるべき姿そのものだった。

ジェイ・Z『デヴィルズ』(1996年)

ジェイのことは1988年から知ってるんだ。(ジェイ・Zの師匠である)ジャズ・Oと俺は同じレーベルにいたんだけど、彼と顔を合わせる時は必ずジェイも一緒だったからね。一緒に曲を作ることになった時、彼は電話ですごく具体的にアイディアを伝えてきた。スクラッチを入れるタイミングとかについてもね。まるで電話先で曲を完成させようとしてるみたいだったから、俺はこう伝えたんだ。「とにかくスタジオで会おう。君のヴィジョンをしっかり形にしてやるから心配するな」
当時、俺は誰よりも優れたプロデューサーであろうと躍起になってた。俺は誰かと競うことで自分を磨くタイプだからね、それは今でも変わってないんだけどさ。でもそこに敵対心はないんだ。マイク・ウィル・メイド・イットやボーイ・ワンダ、マイク・ゾンビ等に負けてられるかって気持ちでやってるけど、みんなあくまでいいライバル同士なんだよ。

ザ・ノトーリアス・B.I.G.『テン・クラック・コマンドメンツ』(1997年)

ビギーは最高にいいやつで、イカしたユーモアのセンスの持ち主だった。この曲はもともと、(ニューヨークのラジオ局)Hot 97で夜9時にやってたTop 5って番組のプロモーション用に作られたんだ。(DJの)アンジー・マルチネスのために、当時はオニックスやウータン・クランもプロモ曲を提供してたから、俺たちもジェルー・ザ・ダマジャをフィーチャーした曲で貢献したんだ。カウントが9で終わるのは9時の番組ってことにちなんでるんだけど、ある日プロモーションで番組に出てたパフ(・ダディ)が、その曲に思いっきり食いついたんだ。俺の仲間がポケベルに緊急事態を示すメッセージを送ってきて、電話したら「パフィーがラジオに出てんだけど、お前に電話して欲しいってさ」それで連絡すると、パフィーにこう言われた。「あのビートはマジでヤバい。あと1曲でビギーのアルバムが完成するんだが、あの曲を使わせて欲しい」当時パフィーとジェルーは互いを敵視してたんだけど、やつに相談するとこう言ってくれた。「それがヒップホップだからな。やつにくれてやれ」

(1998年にチャック・Dは、同曲で自分のヴォーカルサンプルが無断で使用されているとして、バッド・ボーイ・レコーズ、アリスタ・レコーズ、プレミア、ノトーリアス・B.I.G.側の人々を著作権侵害及び名誉毀損で訴えている。同年には両者の間で示談が成立しているが、示談金の額は公表されていない)

ビギーはチャックのヴォーカルを残したがったが、俺はやめた方がいいと言った。アルコールとドラッグとセックスが出てくる曲に自分の声が使われることを、彼がよしとしないことは目に見えてたからね。でもビギーは「俺がなんとかするから心配するな」って言って聞かなかったんだ。ビギーが死んでしまったこともあって、チャックはすぐには行動に出なかったけど、彼が黙っていないであろうことが俺にはわかってた。

だから訴えられた時は「やっぱりな」って感じだった。その1ヶ月後に、俺たちはパブリック・ツアーと一緒にツアーを回ってるんだ。お互い平静を装ってたけど、その話題になるとやっぱり気まずかったよ。彼は自身の考えについてはっきりと口にしたし、俺はそれを尊重した。曲の印税について調べさせたらとんでもない額だったんだけど、書面にでっかく「差し押さえ」の赤いスタンプが押してあった。(裁判を起こされて)さすがに俺も困ってると、パフは賠償金の半分は自分が持つと申し出てくれた。しばらくして、ジャム・マスター・ジェイを通じてチャックから連絡があった。「話したいことがある」って言う彼に、俺は「何も言わなくていいさ」とだけ言って、互いにハグし合った。わだかまりを解消できて嬉しかったよ。

Translated by Masaaki Yoshida

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