結成20年、トータルテンボスが語った「モヤモヤ」からの脱出

こうして2人は1997年にトータルテンボスを結成。翌98年に吉本の養成所・東京NSCに入り、デビューを果たす。デビューした年に劇場のレギュラー出演を獲得。それは東京NSC史上最短でのレギュラー獲得だったらしく、順調なデビューとなった。

ところが、レギュラー出演していた劇場が閉鎖され、レギュラーのポジションを失ってしまう。そこで快進撃が少し止まるも、2001年にルミネtheよしもとがオープンすると、早々にレギュラーの座を獲得した。新人としてはかなり順調に進んでいるように思えた。ところが……お笑いの道に誘ったはずの大村が「お笑いを辞める」と言い出した。その理由を大村は「焦っていたんですよ」と振り返った。

自分たちよりも面白くても売れてない先輩がゴロゴロいるし、東京に出てきた地元の仲間にはIT企業に勤め、月収で400万稼いでいるやつもいた。そんな環境の中で、辞めるのを決断するなら早い方がいいと大村は悟ったのだ。しかも、相方の藤田は芸人世界にどっぷりつかり、150万ほど街金から借りている生活……。当時の2人の収入は月2万円あればマシな程度で、バイトなしでは生きていけない状態。大村の決断は無理もない。だが、藤田の方は芸人としては順調に進んでいると思っていたし、お金はなんとかなると思っていたので、大村を引き留めた。大村の決意は固かったが、吉本の偉い人が「今辞めるのはもったいない」と熱心に説得され、「ならば1年間だけ頑張ってみよう」ということになり、あと少しだけお笑いを続けてみることにした。


Photo by Kentaro Kambe

その際に、引き留めてくれた人から「今年からM-1という漫才のコンクールが始まるから漫才をやってみては?」と言われ、それまではコント専門だったが、漫才にもチャレンジした。そして、その漫才が予想以上にウケた。大村が漫才にシフトチェンジした際の気持ちをこんなふうに振り返る。「コントより漫才の方が気持ちよかったです。コントはキャラを演じているけど、漫才は2人で笑わせてる感じがするんです。漫才で人を笑わせていたら“お笑いを辞めよう”というモヤモヤはなくなってましたね」と。一方の藤田はその漫才に少しモヤモヤを感じていた。「ネタは大村が作るので、コントを演じるのと同じ感じで、漫才でもツッコミを演じていて。だから、大村のような気持ち良さは僕にはなかったですね」と。

そんな藤田のモヤモヤもすぐに解消された。それまで、大村の作ったネタをこなしていた藤田だったが、あるとき、自分の言葉でツッコミをさせてほしいと申し出た。大村もこれを快諾。藤田は地元の言葉や同世代の若者の言葉=等身大の言葉でツッコミをした。これが大いにウケた。「初めて自分が笑わせている感じがしてすごく気持ち良かったですね」と藤田。さらに、当時はツッコミが立っている漫才がなかったので、ツッコミ役の藤田がアフロヘアになり、柄の悪そうな本来ならボケ役な印象の藤田が、「ハンパねぇ」といった若者言葉でツッコむ“トーテン漫才”が完成した。「それが04年ぐらいで、そういう自分たちのスタイルが完成して、M-1の決勝にも進出できて、そこからはおかげさまで忙しくしていますね」と大村がコンビとしての成功の転機を振り返った。客観的に見てみると、“スタイルの完成”とは大村も藤田もモヤモヤがなく人前に立てるようになったことだとわかる。

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