レッド・ツェッペリンが誕生するまでの物語

1968年9月7日デンマーク、ニュー・ヤードバーズのジミー・ペイジとロバート・プラント (Photo by Jorgen Angel/Redferns)

ジミー・ペイジが新たなメンバーを集めてレッド・ツェッペリンを結成し、ニュー・ヤードバーズとして1968年に初めてのライヴを行うまでの軌跡とロックの歴史が作られたプロセスを振り返る。

1968年9月7日、レッド・ツェッペリンが初のライヴを行った場所は、よりによってデンマークのグラッドサクセにある体育館を改装した会場だった。バンドにはまだ、間もなく世界的に有名になるあの名前は付けられていなかった。その代り、わずか数か月前に分裂し、ブリティッシュ・インヴェイジョンを代表するブルーズ・ロック・バンド“ヤードバーズ”をリニューアルしたバンドとして、ニュー・ヤードバーズ名義でステージに上がった。新たなラインナップの中で当時有名だったのは、ギタリストのジミー・ペイジだけだったが、ティーン・クラブと名付けられた会場へ多くの若いオーディエンスを集めるには、それで十分だった。ジミー・ペイジは自腹でスカンジナビア・ツアーを敢行した。「彼らのパフォーマンスと音楽は、正に完璧だった」と、地元評論家のベント・ラーセンは会場の発行するマンスリー・ニュースレターに書いている。「ライヴが終演してしばらくは、耳に心地よい残響が残った」

初ライヴで彼らは、バンドのファースト・アルバムにも収録されることとなる『コミュニケイション・ブレイクダウン』のほか『幻惑されて』や『ユー・シュック・ミー』を披露した。この時の演奏は、その後数年の間に行われるロサンゼルスのザ・フォーラムやロンドン郊外のアールズ・コートでのライヴと比べると、色あせて見える。しかし、この重大な出来事をどれだけ誇張してもし過ぎることはない。ツェッペリンがロック界のオリンポス山の頂上へ上り詰める第一歩であり、その功績のほとんどはジミー・ペイジにあるといえる。

1968年春、ペイジは岐路に立たされていた。かつて引っ張りだこのセッション・ギタリストだった男が再び、バンドに属さない身となった。それまでの約2年間、彼はヤードバーズでプレイしていた。当初ペイジはツイン・リードの片割れとして古い友人でもあるジェフ・ベックの引き立て役だったが、ベックが米国ツアーの途中でバンドを離れると、ペイジがバンドの中心になった。その後また短い米国ツアーを回った後、ペイジ以外のメンバーが別の路線を歩みたいと言い出し、突然あっさりとバンドは終わりを迎えた。

ペイジは当然がっかりしたものの、彼の頭の中には次のステップへのアイディアがあった。1960年代初頭の多くのポップやロックの大物スターたちとの全くクレジットされないレコーディング・スタジオの仕事から、海を渡った米国の大学やクラブでの激しいライヴへの移行は、ペイジにとってスリリングな体験だった。しかしペイジは同時に、ヤードバーズのマネジャーやプロデューサーのミッキー・モストからの音楽的志向の押し付けを、息苦しく感じていた。

Translated by Smokva Tokyo

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